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偏りと、かわいそうランキング

私がお世話になっている富永京子先生の本『みんなの「わがまま」入門』を読んだ。所々に笑うポイントがあった。「ツンデレ」という少し古いネタがあった。スイーツの写真をネットに載せる富永先生でもパフェの写真を撮ることは難しいように、社会の全体像を見ることは難しい、という遠回りな比喩もあった。本の内容については既に多数の人がネットに書いているので、私の感想を書くことにした。本ページは全文が無料で、およそ2300字ある。

私は2010年以降の社会運動の良い面と悪い面の両方を見ているため、どっちつかずの曖昧な想いを抱いている。先にオチを書くと、『みんなの「わがままま」入門』を読んでも、私の想いは相変わらず曖昧なままだった。もちろん『みんなの「わがままま」入門』は素晴らしい本で、決して批判したいわけでない。

本のリンクを貼ろう。こちらはAmazonだ。

こちらは出版社のサイトで、「はじめに」が全文公開されている。

富永京子先生のnoteのページはこちら。

この本では趣味の事例が多数紹介されている。化粧品をきっかけに、肌の色と人種差別の問題を考えたケースもあった。ダンスサークルの学生が、風営法の改正とクラブの取り締まりがあった社会情勢の中で「人々の行動が抑制・制限される」問題にモヤモヤしていたら、社会運動をする学生と盛り上がった、というケースもあった。

コンビニ、ロックフェス、サッカーなど、一見すると政治や社会運動を無関係に思える身近な事柄を入り口に、異なる属性の人々がつながり、動員することを、富永京子先生は肯定的に捉えている。

この現象は「セレンディピティ」や「誤配」のようなものだろうか?ただし、本文中に「セレンディピティ」「誤配」という言葉はなかったが。「誤配」は東浩紀先生が使う言葉だ。

遠い外国の問題は自分に無関係に思えても、実は自分につながっている。

しかし富永京子先生はそこで満足せず、さらに先の困難まで考えている。

それは「身近なことを入り口に考えても、それでもなお、想像が及ばない『よその世界』がある」ということだ。

本の終盤で先生は「その困難があるからこそ、『よそ者』が問題に関わることが役立つ。完璧な解決でなくてもいい」と述べている。


これ以降は私の感想を述べよう(富永京子先生の意見ではない)。ハッキリとしたエビデンスはないので、こんな曖昧なことを書いたら怒られるかもしれない。


そもそも社会運動においては、「偏り」を問題視する傾向にある。「この問題解決にはぜんぜん金が足りない。人が足りない」と。「多すぎる」ことも問題視される。だれも行動を起こさずにいると偏ってしまう。だから社会運動が必要なのだ。

社会運動は、基本的に自由だ。ボランティアは「志願する」という意味だ。雇用関係はない。強制ではない。やらなくてもいい。やめてもいい。自由だからこそ、偏ってしまう。社会運動をしても、それでも「たくさんの人から注目され、金が集まる運動」と、「注目されず、金が集まらない運動」があるので、偏りがある。募金でも署名でも、偏ってしまう。偏りをなくす活動に偏りがある。

つまり二段階の偏りがある。

『みんなの「わがまま」入門』の「1時間目」34ページから52ページの重要な要素を私なりにまとめるとこうなる。

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社会運動においては、個人的な問題から女性・年少者・居住地・職業などの属性を取り出し、社会の問題として捉えていた。しかし個人化が進んだ社会では、人々に共通する「ふつう」が分かりにくくなったため、特定の属性に基づいて誰かを「かわいそう」と思うことは難しくなった。それでも依然として属性に起因する社会の問題がある。

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以上の事柄を述べた後、富永京子先生は別の角度から「わがまま」について書いていった。本の全体を通し、先生は「社会問題の解決のためには、他人から『かわいそう』と思ってもらうことが大切です」とは書いてない!書いてない!先生の方針に私は賛成だ。

誰もが自由に行動すると、偏ってしまう。

社会運動では、「かわいそうで・わかりやすくて・派手で・深刻なもの」ばかりが注目を浴びてしまうのではないか?ここに名前は出さないが、最近話題のあの活動やあの人たちに対し、私は否定的な意見を持っている。はっきり言うが、私は、あの活動は途中から暴走したと思う。

人は誰でもバイアスを抱えており、すべての人に平等な接し方をすることはできない。時間も金も体力も限られている。私もそうだ。

有名な論客であるテラケイさん(別名 御田寺圭さん、白饅頭さん)は「かわいそうランキング」という言葉を使って問題提起している。

御田寺圭さんの本のリンクをここに載せよう。


佐藤美奈子氏による書評も素晴らしい。

念のため書いておくが、私は広告料を1円ももらっていない。

ここでは「かわいそうランキング」についての説明を省略するが、ようするに私は、個人の自由に任せて「かわいそうか否か」を基準にすると、偏ると思っている。

だから個人の主観を排して税や社会保障で強制的に再配分を行い、裁判では署名を無視して判断すべきだ。ベーシックインカムのような方法もある。

それでも税や裁判に任せると解決しない問題がある。どっちもどっち?

ここでまた『みんなの「わがまま」入門』に話を戻すが、本の中で紹介された「セレンディピティ」や「誤配」のようなものが、自分のバイアスを発見し、社会問題の解決につなげ、偏りをなくす効果を持つと思う。それが書いてあるから、私は本書が素晴らしいと思っている。

効果があるとは分かるが、それでもなお、私は近年の社会運動への疑いを消すことはできない。

結局私は、どっちつかず。

富永京子先生、ありがとうございました。

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