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専門知識について評価するために専門知識が必要ですか?ミイラ取りがミイラになっていいんですか?科学技術コミュニケーション

学門や研究の役に立つ・役に立たない論争は大昔から散々繰り返されてきた。私一人ですべての論点を書き尽くすことなどできない。だがその中でも今回は論点を一つだけ取り上げよう。それは評価に専門知識が必要だという論点だ。名乗り遅れましたが、私は街河ヒカリと申します。

専門分野を自分一人で研究するならまだしも、現代においては自分の専門分野の意義を非専門家に対して説明する必要がある。逆に非専門家は専門家に対して意義を問う必要がある。「哲学が何の役に立つか?」を知るためには、哲学の知識が必要だ。「物理学の論文に書いてあることが正しいか間違っているか」を判断するためには、物理学の知識が必要だ。それだけでない。「おもしろいかつまらないか」「美しいか醜いか」も同様だ。食べ物やお笑い芸人のギャグなら専門知識はほとんどいらないが、学問や研究は参入障壁が高く、ハイコンテクストだからだ。

ここで反論する人もいるだろう。「いや、素人にも分かるように伝えることが必要だ」と。その通りなのだが、しかし「分かる」と「分からない」は二分されずグラデーションなのだから、専門外の素人に伝える場合、どうしても正確性が下がってしまう。相手を「分かったつもり」にさせる、子供だましや詐欺の手口が横行するリスクもある。素人からのウケを狙ってしまっては、その分野ならでは特別な価値が損なわれる。

だからその分野を適切に評価するためにはその分野の知識が必要なのだ。しかし専門外の人の力では評価が難しい。

「哲学が何の役に立つの?」「それを知るためにはあなたが哲学を学ぶ必要があります」「私は哲学が役に立たないと思うので哲学を学びません」

これでは何も収穫がない。

中には「私は量子力学のつまらなさを他人に説明するために量子力学を学びます」という人もいるかもしれないが、そんな人は少数派だろう。たいていは「おもしろい」「美しい」「役に立つ」と思うからその分野に取り組むのだ。たとえ論理的でなくても。「説明できないけど何となくおもしろそう」という動機の人もいる。小学校や中学校なら強制的にすべての生徒にその分野を勉強させるが、今回私が論点にしているのは、少数の人だけが学んでいる分野だ。

ある専門分野の価値を適切に評価するためには、専門知識が必要だ。専門知識を持つ人は、その分野を高く評価した人だ。しかし、その分野を高く評価したら、それを評価する必要はなくなる。なんというパラドックス。ある分野を低く評価している人は、専門知識がないから、その分野を適切に評価できない。

以上の現象にはどのような名前が付いているのだろう?知っていたら教えてほしい。「専門性のパラドックス」だろうか?私がお世話になっている大学教員は「科学技術コミュニケーションのパラドックス」と呼んでいた。

もしかしたら誰かが「専門性のパラドックス」や「科学技術コミュニケーションのパラドックス」を違う意味で使っているかもしれない。もしそうだった教えてほしい。

近年はあらゆる分野を横断するような学際的な分野や、文理融合の分野も生まれている。科学技術コミュニケーションの活動もある。こうした新しい取り組みによって新しい評価手法が生まれることもある。しかし、「評価」についての評価が必要だ。「評価」についての評価に、「評価」についての専門知識が必要なのだろうか?専門のタコツボ化を解決する分野がタコツボ化してしまってはダメだ。ミイラ取りがミイラになってはいけない。

そして私のこの文章を読むためには専門知識が必要なのだろうか?これを書いている私は、「ミイラになったミイラ取り」を取りに行ってミイラになるのか?評価の評価の評価の……はてしなく続いていく。

そして今これを読んでいるあなたは、どうなのだろう。


以上です。今回のヘッダー画像には、オゼキカナコさんの画像を使用しました。ありがとうございました。オゼキカナコさんのnoteページはこちら。


連載企画「街河ヒカリの対話と社会」について


誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。

以上です。今後も街河ヒカリをよろしくお願いします。

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