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大切なことを大切にする


久しぶりに、前々職の仲間と晩ご飯を食べた。
一緒に働いていたのはもう7−8年前にもなり、お互いにそれぞれ歳をとったけれども当時と同じように話をして、笑い合いながら、途中突っ込んだり熱く語ったり、それぞれの個性がそのままで楽しい時間だった。

その間の空いていた7−8年の間にお互いの状況をキャッチアップしていく中で、ここのところよく質問されることを改めて話をしたので、それについてまとめてみようかと思う。


何故、台湾に移住したのか?

シンプルに理由を書くと「面白そうだったから」そして「成長できると思ったから」。

前々職の環境は刺激もあり会社自体も色々な言われ方をするけれど、私個人としては大好きで、仲間も多くいたし、評価もしてもらえていたと感じている。愚痴を言うこともまぁもちろんあったけれども、総じて楽しかった。そして恵まれていたと思う。今、残って働いている人たちを見ていると、私もそのまま頑張っていたら出世もできていたかもしれない、と思うこともあると言えばある。

けれど、12年間働いて自分の成長スピードが落ちてきたような気がした。
自分の成長は自分自身でどうするかでしかないと思うけれど、どこに身を置くか、環境の力はとても多い。
だから、環境を大きく変えようと思った。部署の移動は2−3年単位ではしていたけれど、違う世界を見たいと思った。そして、最終的に全く違う世界でその時の私でもチャレンジできる、と感じて選んだ選択肢が「台湾で働くこと」。日本語で仕事ができる、台湾だけど。
新しい環境で働けることにワクワクして飛び込んだ。本当にそれだけのこと。一人で身軽だったら決断が早かったことは間違いないけれど、「きっと新しい環境の中で成長できる、挑戦できる」そんな不安とワクワクで飛び込んだのが台湾だった。


何故、日本に帰国したのか?

では、何故移住するつもりで行き4年以上住んでいた台湾から日本に帰ってきたのか?このことも良く質問される。急に行ったことにも驚いたけど、急に帰ってきたことも驚かれた。

これは家族の環境が変わったから。
あと10年、15年は元気に生きるだろうと思っていた父が、癌が発覚し、あっという間に4ヶ月でこの世を去った。

残念なことに、当時はまだパンデミックの終盤の頃で台湾と日本を自由に行き来はできず、ビジネスビザを持っていたからこそ私は日本と台湾を行き来できたけれども、そのフライトも週に3−4本と限定されキャンセルになることもしばしば。そしてフライト費用も軽く15万円ほどかかり、何よりもPCR検査の結果表がなければ入国することもできず、公共交通機関で移動できなくて空港から片道3時間半のドライブで実家に帰るという制限もあり、費用だけでも片道20万、そしてとにかく時間がかかり、移動コストが非常に高い状況だった。何もない時には東京から実家に帰るぐらいの気軽さで行き来をしていたのに。

お金も時間のことももちろんなのだけれど、何よりも会いたいときに会えるわけではないと言うこと。

まだまだ元気でいると思っていたから、年に1回帰るかどうかで日本にいた時からずっと好きなことをさせてもらっていた。両親とも口には出さなかったけれど、独身のまま仕事ばかりしていたのできっと心配もしていただろう。で、両親と共に過ごす時間は実際のところほぼなく頭の中で「年に1回会うとしたらあと10数回、年に2回でも30回もないのかもしれない」と思ってたところにやってきたこの状況。
癌だと分かり即座に、「会社を退職させてほしい、介護のため日本に帰国させてほしい」と頼み込んだ。当時スタートアップの経営幹部として働いていたので、本当に無茶なお願いだったと思う。そして短期間の引き継ぎや日本への引越し、帰国、私自身も大変だったけれど。
でも、思った以上に父の余命はあっという間で最後は家で過ごすために退院し、そして私もギリギリ帰国が間に合い、最後の時間を断続的にだけれど1ヶ月ほど共に過ごし看取ることができた。途中いつ亡くなるか分からないという不安と共に最後の引越し手配のために台湾に飛んだりもしながら。
当時の私が出来る限りのことはした。
様々なところで迷惑をかけたことはもちろん分かっている。取引先にも、パートナー企業にも、何よりも前職の上司、仲間たちにも。それでも、私なりにこれ以上はできないと思えるところまではやり切ったつもりでもある。

自分のわがままであることも理解している。
それでも、その時にこの選択肢を取らなければ私はこれからの人生でずっと後悔し続けていたと思う。大切な家族と共に過ごす時間を最後の最後で最優先にして、個人として、娘として、心の底から良かったと思っている。


何故、独立したのか?

そんなバタバタで日本に帰国してから1年半ほど。
自分ではもっと長い時間が過ぎたような気がしているほどに様々なことがあり。社会人になってから日本へ帰国するまでずっとずっと仕事をし続けて立ち止まることなく生きてきたので少し休憩しようと仕事は横に置いて実家で過ごしていた。
その間に、有難いことに私が日本に戻ったことを聞いてお仕事の声をかけてくださる方や、企業からオファーを頂いたこともあるけれど、あまりにも短期間に一生のうちにうちに一度あるかないかと言うような出来事がぎゅっと起こったことで、気づかない間に精神的にも疲れていたこともあり。しばらくは休憩したいということで、チャンスを逃すことになるかもしれないけどお断りをさせていただいていた。

その間に色んなことを考えた。
父のことがあり、元気な母もいつどうなるか分からないということ。
田舎の家で田畑&山があるので、母一人で維持していくことは難しいということ。
そして、私自身も時間の自由を手に入れたい、パンデミックを経て、行きたいとことに行き、会いたい人に会いに行ける大切さをしみじみと感じていた。
環境的にも、オンラインで仕事ができる仕組みがある程度できていたことも大きいかもしれない。

もしかしたらいつかどこか企業に所属することがあるかもしれないけれど、私は時間の自由と大切な人にいつでも会いに行ける自由を優先して、独立することを選んだ。
ただし、これに関してはやっとスタート地点に立ったばかり。これからが大変だろうし、努力していかなければならないと思っている。そして今までの私の生き方ややってきたことが問われるような時間にもなるだろうなぁ、としみじみ感じているところでも。


どうして二拠点生活をしているのか?

今、どこにいるのか分からないなんて言われることもあるのだけど、地元と京都の二拠点生活をしている。
最初は実家にいる時間が1ヶ月の3分の2ぐらいだったけれど、だんだんその比率を少しずつ変えて、今は実家が3分の1から4分の1ぐらい。京都が残りの時間。その中で、長年住んでいて仕事のつながりや友人の多い東京へ2ヶ月に1回程度行くような生活をしている。

実家にそれなりに居るのは、先にも少し書いたけれど母一人では実家の様々なことをする負担が大きすぎるので負担を少しでも減らして、無理して怪我をしたり病気になったり寝込んだりしないように、元気に生活してもらうため。そして話し相手になってメンタルのサポートもしつつ状況を把握するため。

そして京都は何か実家で起こった時に車で2時間半ほどで帰れることと、東京と実家のまぁ大体中間地点であること。一度住んでみたいなぁと思っていたこと。
何よりも頼れる友人がいること。これが一番の決め手だったかもしれない。


結局は。
今までの人生で大切にしてきたことを大切にしただけのことではある。

成長し続けていたいということ。
明日はないかもしれないということ。

阪神大震災の被災者となり、もしかしたら死んでいたかもしれないという経験をして、後悔がないように、面白そうと思ったことは全部してみよう、気になったことはやってみよう、自分で動いて考えて生きられるようになろう、そう心に決めて生きてきた。

だから、今は
会いたい人に会えることを。
行きたい場所に行けることを。
面白そうと思ったことをとりあえずやってみることを。
このことを大切に生きている。


ま、今度でいいか、と思って生きている間に会えなかったひとがいる。
じゃぁ、来週!と話して、そのまま会えなくなった人がいる。
まだまだ先だと思っていたのに、あっという間にこの世を去った父。


だからこそ、今という時間を大切に、いつも全力でなくてもいいけど、やってみようと思ったこと、大切にしようと思ったことは、やはり大切にして生きていきたいと思っている、かなぁ。


久しぶりに東京に少し長めに滞在して、気がつけば台湾に行く前に会って以来7−8年ぶりに会う人も多い滞在期間を過ごしながら、仕事に関する話を多々しつつ感じたことは。

仕事をするにおいても自分の価値観や向かい合い方が、当たり前のことなのだけれども大切で。そして、マネジメントする立場として人に対してフラットでありそして軸が通っていることが大切だと改めて感じたのだけれども。そのためには自分自身の生きることや働くことへの価値観や、ありたい姿、そして何よりも判断軸が明確であること、これらのことが結局は生きていく中で全てのことに反映するし、重要なんだよなぁと。

経験を重ねたことで、当時の自分よりは成長できていると感じたこともあるけれど、根本的な価値観は変わっていないし、大切にしていることも同じで、それは仕事においても一緒なんだなぁと感じた、大切な再会の時間でもありました。


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