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「鶴のゆく末」について②(吸血鬼作品集『VIAGGIO NOTTURNO』所収)

★前回の記事はこちら

前回に引き続き、「鶴のゆく末」について書きます。

合同誌やアンソロジーに参加するとき考えること

個人誌では自分の好き勝手をしますが、ほかの人と作品を寄せ合ってひとつの本を作る場合は、可能な限り自分の立ち位置をどうするか考えます。

要するに「ほかの人とかぶらないように書く」ということですね。

歴史・時代モノで私がどうにか書けそうなのは日本か、せいぜい映画でよくお見かけするアメリカかなと思いましたが、アメリカはきっとリイチさんが書いてくださるでしょうし、まあ日本史だよね、と。(ここで日比谷焼き討ち事件を題材にしようと考えます)

あとは、三谷さんたまさんあたりとカブらないように、たとえ国や時代がカブったとしても似た雰囲気にならないように、と考えた結果、ふんわり明治っぽい文体で書くというのを思いつきました。
といっても本当にふんわり……。古くて難しい語彙は知らないし、たとえ完璧に明治風に書けたとしても読みづらいだけなので、普段の文体より古風に書こう、くらいの気持ちで書いています。

蓋を開けてみると、三谷さんとは国はかぶりましたが時代も雰囲気もだいぶ異なるお話になりました。

たまさんは日本とは全然違う国と時代のお話を書いていらっしゃいました。しかしヒロインの名前がかぶりました(笑)


吸血鬼譚を書くときに考えたこと

私は日比谷公園にある鶴の噴水が好きなので、作中に登場させたいな~と思って調べていたところ、丸山薫の詩「噴水」を見つけました。

鶴は飛ばうとした瞬間、こみ上げてくる水の珠に喉をつらぬかれてしまった。以来仰向いたまま、なんのためにかうなったのだ? と考へてゐる。

飛べないまま水を吐き続けている鶴のすがたから、私は死ぬこともできないで生き永らえている吸血鬼のすがたを連想しました。

「なんのためにかうなったのだ?」

本作の吸血鬼、東堂渉も何度となくこの問いを己に投げかけてきたものと思います。
そこでこちらの詩をエピグラフとして引用し、作品の結末で答えを出すような話にしたいな……と目論みます。


資料を読んで考えたこと

前回の記事に書いたとおり、「鶴のゆく末」のきっかけとなったのは「なぜ、人々は日比谷焼き討ち事件を起こしたのか」という少女時代の疑問です。

なので本作は「吸血鬼譚として成立しており、かつ私の疑問にひとつの回答を与える物語」である必要がありました。

この疑問を解明するために取材班はアマゾンの奥地へ……ではなく、Amazonと図書館へ(徒歩で)飛び立ったのでした。

どの本も興味深かったのですが、全部読む時間的余裕はなく、日比谷焼き討ち事件周辺の記述を眺めるに留まってしまったので、いつかまた読んでみたいです。

「人々」というのは暴動を起こした人たちの集合体なので、暴動を起こすに至った事情はひとりひとり異なっているはず。
私の使命は私の書くキャラクター(森下敏夫)が、暴動に参加する理由を考えることです。

とくに参考になったのはこちらのご本。ジェンダー規範の観点からも考察されていて、自分なりの答えを考えるのに大きな助けになりました。
「ジェンダー規範によって苦しめられる男性」というのは現代にも通じるテーマだなあと思います。

さて、私は資料を読んでいるうちに、暴動に参加した人々全員にあてはまる共通点に気づきました。何だと思いますか??

「日露戦争で死んでいない」ことです。

何当たり前のこと言ってんだばっかじゃないの?? と思われるかもしれませんが、これって結構重要なことだったんじゃないかなあと思ったんですよね。

暴動が起きる前、ポーツマス条約反対の国民集会が開かれていた日比谷公園では「十万の碧血を奈何せん」という文句が書かれたバルーンが上がっていたそうなんですね。
十万人の死者に申し訳が立たないぞ、という言葉は、煽り文句なことを差し引いても、やはりなかなかの凄みがあります。

当時は徴兵令があって、若くて健康な男性は戦場に送られていたので、暴動に参加した男性(男性が多かったようです)は年齢とか職業とか、身体的事情とか、何らかの事情で戦争に行っていなかった人たちであるはず。

それを分かりやすく設定に起こしたのが、生まれつき心臓が弱い東堂渉と、鉄道事故で杖なしでは歩けなくなった森下敏夫というふたりの男性キャラクターでした。

「何でなんだよ!」
 敏夫が割れんばかりに怒鳴った。憤怒と悲嘆の混じった唾が私の額へ散った。両目に溜まった涙がギラギラ光っていた。
 敏夫が問うているのは、私がここへ来た理由でも、政府がロシアから償金を取れなかった理由でもなかった。彼の怒りは日本という一国家ですら比べものにならぬ程強大なものへと向けられていながら、結局はどこにも行けずに敏夫自身を焼いていた。

元々野蛮なことが嫌いで、戦争に行かずにすんでよかったと思っている渉とは違い、敏夫のようにマッチョイズムの塊みたいな男にとっては、戦争にも行かずのうのうと生きているのはすごくつらかったはず。

アメリカ人の少女(本当は吸血鬼)ダリアのことを、「露探かも」(※露西亜の探偵=スパイ)と疑う敏夫について、渉はこう評しています。

「今は大変な時代だから、自分とは違う人を受け入れる余裕がない人が、そう云う言葉を使ってしまうんだ」

現代でもそういうことは往々にしてあって、「自分とは違う=敵だ!」っていう短絡的な人は叩かれやすくって、溝とか分断とか広がってしまいがちなんですけど、そういう人こそ現状何かに苦しめられて余裕がなかったりするんじゃないかなっていう……(ろくろ)

上手く言えませんが、そんなことを考えながら書いたお話です。

いっぱい語ってしまった後でアレなんですが(笑)よかったら読んでいただけるとうれしいです。→カクヨム


もう一度『吸血鬼作品集 VIAGGIO NOTTURNO』について

大切なことなので二度言いますが、こちらのご本は、2020年9月6日に開催される第八回文学フリマ大阪でも宮田さんのブースで頒布される予定です。
ちょうど日比谷焼き討ち事件の115年後ですね!(ちょうどとは)

BOOTH通販で購入することも可能です。

全作の試し読みはこちらからどうぞ。



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