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勝手にチャレンジ1000 0108 蜘蛛の糸とか。

 私はエッセイは書かない
2021年に亡くなった作家魚住陽子の言葉に衝撃を受け、そうか、作家志望ならエッセイ書いてる場合じゃないな、きちんと小説を書かねばと、思いながらエッセイにもならない日記のようなものを書き付けている。
 庭仕事のあれやこれや庭に起こる色々なことどもを通じてnote を書く。観察、内省、言語化の練習にもよいな、と思っているのだけど、創作には、もう一段飛翔する瞬発力や筋力が必要だ。えいやっと、書き始めたら持久力もいる。力を付けなければ、と思うし、そのための修行が大切だな、と思う。
 日々、創作の種はある。庭は暗示の宝庫だ。そして、生きている、ということは一瞬一秒小説のネタだらけなのだから、それを表現することができたらスッキリするだろうな、と思う。全ての芸術は音楽を目指し、全ての言葉は詩に憧れるというけど、絵画や音楽は好きだが才がない私は、世の成り立ちや生きる不思議を表すのに言葉を用いる他なく、この気持ち、この雰囲気、隠れている真理のようなものを、短い、ぴったりな一言で言い当てる詩の才もないので、散文にならざるをえない。もやもやを解消するために書くわけではないけれど、書けば人生も充実しそうだし、なにより自在に書ければ楽しいと思う。

 ところで、うちの庭には、睡蓮の咲く池もあれば蜘蛛もたくさんいる。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のことを考えた。作文の練習には名作を読むのは当然として、書写が効果的、と言う考えがある。ある作家がデビュー前に五年間、名作を書き写し続けたということを耳にして、面白そう、ともおもったし、自宅と実家の家事雑事でこれといったことはなにもできないなら、どうせなら人生修行、読むのもいいけど書き写すのは修行っぽくていいなと思った。見かけに拠らず求道的な性格なのだ。できるかどうかは別として。
 さて、「蜘蛛の糸」である。手元になかった。子供の本棚の日本文学名作選の芥川龍之介は「羅生門・トロッコ」で、収録作品に「蜘蛛の糸」がなかった。なんてこと。仕方がないから、パッと開いたところの「手巾」を少し写してみた。実家には未だに読んでない私の芥川龍之介全集がある。なにしろ、全集を揃えてから、半分も読んでない。「蜘蛛の糸」もあるだろうし、他にも良い文章がつまっているに違いない。名作書写の教材にはぴったりだ。1日一書写、1日一話。やることが多すぎる。それでも、とにかく、実践第一。待ってろ、「蜘蛛の糸」。

 なんだか、妙に力が入り、鼻の穴が膨らんだら、お腹が空いたのであった。


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