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ダメ人間探し中毒(ジャンキー)からの卒業

もう今年何度目だろうか。
この「何かからの卒業」シリーズ。
またこのフェーズがやってきたので、記録しておきたい。
(Facebookにはかなりアップしています)

数日前、帰宅した直後に、「自分には何もない」と号泣したことがある。
突然のことだった。別に何か嫌なことがあったわけではない。
むしろ大学では学生が続々と面談して、内定報告もあって、うれしいことは続いていた。

しかし実はその数日前から自分の内側で、「なんで私にはないんだろう」と、「ダメ人間ジャンキー」が始まっていた。
相変わらず普通に抑圧していたみたいだが、帰宅したタイミングで我慢が出来なくなってしまった。

なんであの時泣いたんだろう?なんで私には何もないんだろう?
今朝、目を覚ました時にはっとして、久しぶりに自分を紐解いてみる。

紐解き始めて出てきたのが、小さな幼子の私が泣いている姿だった。
小さな私はどこに行っても1人。
そのままの自分では受け入れてもらえないのが痛いし、悲しいし、つらかった。本当は泣きたかったけど、泣いてよしの場がなかった私は、自分の感情を押し殺すようになったのだろう。
だってそうしなければ、幼子の私は生き延びられなかった。

おそらくそれからだと思う。本心を明かせなくなったのは。
名前のように明るくふるまわなければならない。
親の期待に応えて勉強ができなければならない。
聞き分けの言い、ちゃんとしている子でなければならない。

それが自分の鎧となって、自分自身を抑圧していった。

時に私は自分で決められないことがある。
それも本心と思考の葛藤だったと、今朝分かった。☜今朝かよ(笑)

今年に入ってダメ人間探しは終わったように思っていた。
1カ月ぐらい前には、こんな記事を書いていた。

なのにまた最近、ダメ人間探しを再開していた。とことん私はダメ人間探しジャンキーだとあきれていた。
けれど逆を返せば、ダメな私でいて、それを是正しないと、自分自身が終わってしまうのだ。だって本心を明かしたら、何もない自分がばれてしまうから。

何もないわけではない。こうしてかける力はあるし、キャリアコンサルタントとしても10年以上活動してきた。何もないわけじゃない。なのに私は自分にはなんもない、空っぽだと思っていた。だから穴をパテで埋める職人が如く、何かにすがったり、学んだりしてきた。

この事実を目の当たりにしてようやく、本当の私と出会えたような気がする。やっと自分とつながれた感覚が生まれた今、泣きじゃくっていた幼子の私は、にっこり笑っている。

たとえ不本意な現実でも、起こることは必然であり、最善。
痛みはあってもいいし、痛みでさえも必ず自分に大切な何かを教えてくれる。
そして空っぽかもしれない私でも大丈夫。
やっとダメ人間中毒(ジャンキー)から卒業して、前に進める。
心から思えた朝だった。

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