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【過去記事】10 years after: 1996 NBA Finals④


 1996年NBAファイナルについて、10年後に振り返って書いた記事(2006年発売の「NBA新世紀」Vol.17に掲載)を4回に分けて再掲載してきましたが、最終回の今回の掲載分では、10年という年月について書いています。

10 Years After──十年後の視点
1996 NBAファイナル
シカゴ・ブルズ対シアトル・スーパーソニックス④

「NBA新世紀」Vol.17(スポーツマガジン2006年5月号)掲載
                  (ベースボール・マガジン社)

再びNBA復帰を目指すケンプの今

 あの日、ジョーダンのために「ハッピー・ファーザースデー」というプラカードを掲げていた7歳の長男、ジェフリーは、今では17歳の高校生となり、シカゴ郊外のロヨラ高校でバスケットボールをしている。有名な父と同じスポーツをすることでのしかかってくるプレッシャーも気にせず、父と同じ目をしてボールを追いかけている。父は時々、息子の試合を応援しに行っているという。
 10年という月日は人を成長させ、状況を大きく変える。7歳の子供は高校生になり、背中痛に苦しんでいたベテラン選手は、ポートランドでヘッドコーチをしている。背中痛は回復して久しいという。
 そして1996年にはNBAの若きスーパースターとして注目を浴び始めていたソニックスのショーン・ケンプはその後、一度NBAを自ら去ったが、36歳になった今、再びNBA復帰を目指し、ヒューストンでトレーニングをしている。この10年間で増えた25kg以上の体重を落とし、パーティや酒を控え、結婚して家庭を持ち、再びNBAのユニフォームを着る日を目指してトレーニングを続けている。金銭のためではなく、自分のイメージを取り戻すために……。
 昨年夏、『シアトル・タイムス』の取材を受けたケンプは、ソニックスで優勝できなかったことを後悔していた。
「僕らは優勝しそこなってしまった。選手として、本当にしくじってしまった」とケンプは後悔の言葉を口にした。
 さらに彼は、かつて自分が持っていたものについても語る。
「テレビで、人々がカール・マローンやチャールズ・バークレーについて語るのをよく見る。でも俺は、マローンやバークレーが、コートに出てきて俺と対戦するときに見せていた目を覚えている。あのときの彼らの目には俺に対する畏怖心があった」
 今や、ケンプを語るときに人々の目にそのときと同じような畏怖は見られない。可能性を開花させることなく、才能を無駄にした選手として人々の記憶に残っている。そのことが、ケンプには我慢ができなかった。
 一番最近、ケンプの名前をニュースで聞いたのは1月末だった。ニュースの中でケンプは、「足首を痛めて、少し出遅れてしまったが、オールスター頃にはNBAに戻れそうだ」と言っていた。
 ヒューストンで行われたNBAオールスターが終わって2週間が過ぎた。まだケンプがNBAチームと契約したという話も、あるいは契約しそうだという噂も聞かない。
 十年ひと昔。多くのことが変わる中で、変わらないこともある。ブルズの72勝のNBA記録。そしてNBA選手が優勝にかける思い。
 誇り高いゲーリー・ペイトンが、控えになるとわかっていながらマイアミ・ヒートと契約したのは、ただただ優勝したいからだった。
「このリーグのほとんどの選手は優勝するためにプレーしている。たとえそのために控えになったとしても、それでも達成したいことなんだ」とスノウは言う。96年当時ソニックスのルーキーだった彼も、すでにプロ11年目、33歳のベテランだ。2001年、フィラデルフィア・76ersの一員としてNBAファイナルに戻ったがレイカーズに阻まれて優勝には手が届かず、今はクリーブランド・キャバリアーズで21歳のスーパースター、レブロン・ジェームスとともに優勝を目指している。スノウは言う。
「もし幸運にも37歳、38歳になってもプレーすることがあるとしたら、もし引退を1、2年延ばすことがあるとしたら、その理由は優勝しかありえない」

                               (完)


           10 years after: 1996 NBAファイナル
              ①「72勝」をめぐる10年後の不思議な縁
              ②「成功に魔法というものはない」
              ③マクミランの涙、ジョーダンの涙
              ④再びNBA復帰を目指すケンプの今

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