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わたしのプロ〇〇〇〇キャリア

祝 初投稿! まずは<自己紹介>から

自然が好き、食べ物が好き

富士山の麓に生まれ、子どもの頃は父の趣味の畑仕事について行くのが楽しみでした。地元の大学に進学し、駿河湾に潜っていた学生時代。海の中で息をひそめてアオリイカの卵の成長をじっと見るのが好きでした。自然の中にいるのが心地よい、そんな女の子でした。

大学卒業後は百貨店の正社員(全国転勤OKの総合職)としてお菓子売り場で働きました。今でもスーパーやデパート、駅ビルの食品売り場が大好きです。

デパガから日本語教師へ

美味しく充実していた百貨店勤務時代に、ひょんなことから日本語学校に通う中国人女性と知り合いデパガから日本語教師になりました。グローバルメーカーの海外実習生に教えたり、日本語学校の非常勤をしたり、モンゴルでゲリラ的に日本語集中講座をしたり、カナダの大学でTAをしたり、ナイアガラの滝の下にあるホテルで観光日本語の講座をしたり、と幕の内弁当のように楽しい日本語教師駆け出し時代でした。

修士課程に進む

その後、結婚をして夫の転勤に伴い上京日本語学校の非常勤講師になります。幕の内弁当のような楽しい教師生活から一転、ティームティーチングで教科書の担当部分をこなし、JLPT(日本語能力試験)対策に明け暮れる毎日。当時のことを思い出すと、歯車感を抱えて、小さなため息をつきながら満員電車に乗っていたように感じます。しかし、負の面だけを見ていても仕方がない、東京にいるメリットを享受しようと、お茶の水女子大学の科目等履修生となり、その後、修士課程に進学しました。

社会人になってからの学びのインパクトは大きなものでした。また、先生方・先輩・同期・後輩と素晴らしい人たちと知り合うことができ、この時代は今の私の大地となっていると感じます。また、指導教官のO先生は私の人生の師でもあります。先生は現在、つくばで毎日畑仕事をしていて、秋には教え子とその家族を招いて収穫祭を開催されています。すっかり不義理をしている私ですが、心のどこかにいつもO先生の笑顔と言葉があります。

大学の非常勤講師から専任職へ

その後、いくつかの大学の非常勤講師を経験し、都内某女子大学の専任講師、准教授になりました。アスリートの集うユニークな大学で、気立てのよい努力家の学生たちから、知らない世界についてたくさん教えてもらいました。また、研究室という自分のオフィスが持てたのも嬉しかったなぁ。同僚の先生方や助手さんたち(この方たちが学生に輪をかけて素晴らしい!)にも本当にお世話になりました。

この大学では留学生ではなく日本人学生を対象に、言語表現科目とキャリア科目を担当しました。キャリア科目担当のきっかけは、なんと「むかし、一般企業に勤めていた経験があるから」というもの。しかし、そんなちっぽけな経験では太刀打ちできず、ふたつめの修士課程に進学することに…。

ふたつめの修士課程、気づいたことは…

キャリア科目の担当となったものの授業に自信が持てず、キャリアデザインを学ぶために法政大学の大学院(修士課程)に進学しました。大学の仕事をしながら、夜間(18:30-21:40)と土曜日に苦手な都心への通学をした2年間。いまも地下鉄にはあまり乗りたくない私ですが、この2年間は地下鉄にも結構乗りました(大地震に遭遇しなくて、本当によかった)。キャリアデザイン研究科の学生は、そのほとんどが経験豊富な社会人で、仕事の傍ら勉学に研究に励む志ある人たちばかりでした。

大学院では修士論文を書きます。そのテーマは、入学当初の研究計画書に記載していたものとは全く違うものになりました。それは、私自身がキャリアに悩み始めていたから。

選んだテーマは、「40-50代の女性小規模起業家がなぜ起業に至ったのか、その理由を明らかにすること」でした。方法としては、「彼女たちのライフストーリーをTEM(複線径路・等至性モデル)で分析をする」というもの。振り返ってみれば私は「静岡に戻りたい、時間と空間の裁量がほしい」と数年来思っていたのでした。それで、時間と空間の裁量を持ちながら自分の仕事をしている彼女たちにじっくり話を聞いてみたかったのだと思います。ライフストーリーインタビューは、至極の体験でした。また、そこで出会ったのがプロ〇〇〇〇・キャリアという考え方でありました。

そして、気づいてしまうのです。実は、私自身、すでにプロ〇〇〇〇・キャリアの道を歩み始めていたことに。そして、そして、私自身の幸福のために、さらなる一歩を踏み出すことになるのでした。

さて、ここで【問題】です。

【問題】プロ〇〇○○・キャリア  〇の中に入る文字は何でしょう。

解答と解説は次回へ。 つづく…




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