生命の目的は種の繁栄か?/生物学的に考えて子を産むべきか?

はじめに

 常々平易を心がけて哲学入門的な議論を行っているが、筆者の「クオリア」や「神の有無」や「反出生主義検討」といった議論は読み返したところそれでもなお議論や術語が多く文章量も膨大で、入門レベルとしては不適切かもしれないと考えた。そこで今回は、本当に簡単に追うことのできる議論を用意した。哲学的には一瞬で片付いてしまう問題を、あえて生物学の観点から概観する。よって、今まで行ってきた議論のような哲学的に晦渋な論述はないはずである。読みやすいはずである! 信じて欲しい!!


直観から

 どんな生き物も子をなし種を保存しようとしているように見える。実験室で普通に見ることのできるラットやマウスもそうだし、外でやかましく鳴いているクマゼミもそうだし、今私の左手薬指、その爪の脇に瘭疽を引き起こし、黄色の膿を作っている黄色ブドウ球菌もそうだ(連鎖球菌など他の菌かもしれないが同じ事だ)。とうの昔に絶滅してしまったペロロサウルスやサカバンバスピスだって子をなしてきた。生焼けの鶏肉を食らったために私を地獄の苦しみに叩き堕としたカンピロバクターとてそうだ。
 以上を鑑みるに「生物の目的は子をなすことなのではないか?」という疑問が浮かぶことがある。更に進んで「生物としての目的を果たさないのは不道徳、あるいは正義にかなわない、あるいは悪などなどではないのか?」という疑問が浮かびうる。さて、これら疑問について検討しよう。

自然に訴える論証

 上のような主張は「自然に訴える論証」である。終わり。この議論に慣れきった哲学徒は涼しい顔でこれを口にして終わるだろう。あるいは自然に訴える論証に基づくおたよりでイライラが筋肉に変わりそうな序文をよくあらわしているドーキンスやらピンカーやらの進化論的な著作を発表する自然科学者たちは若干ピキりながら口にするかもしれない。太古の昔からこの論証で殴られ続けてきた同性愛者などはいいかげんにしてくれ!! と叫び出すかもしれない。まずは落ち着こう。

 まず自然に訴える論証とは「何かが自然だから善い」「何かが不自然だから悪い」とする論証である。

 この論証から「子をなすことは善いことだ」「子をなさないことは悪いことだ」が導かれたとしよう。

 すると、外でせっせと鳴き続けている実にやかましいアブラゼミのオスはまさにこのための努力を行っており善であり、逆に私の知人で精力的に同性愛恋愛小説(なお彼は逆カプもリバも大好きである)を執筆している子をなすつもりのない同性愛者Kくんは許されざる大悪党である。

 さて、この自然に訴える論証はどんな問題に直面してしまうだろうか。

正義間の対立

 さきほどアブラゼミが外でやかましく鳴いて私を苛立たせていることは生殖のための努力で実によいことだと述べた(アブラゼミやクマゼミはうるさくて嫌いだが私はヒグラシは好きである)。

 ここでホタルを見てみよう。光るタイプのホタルは(光らないタイプのホタルもたくさんいる)ルシフェリンとルシフェラーゼの化学反応で冷光を発する(全てのワードが中二心をくすぐる)。少し出かけてゲンジボタルやヘイケボタルを観察した人も多いのではないだろうか。筆者はホタルの冷光が大好きである。だが、ホタルのそれ以外の外見はちょっと好きになれない。具体的には、あの赤と黒のカラーリングがアオバアリガタハネカクシを思わせてキモい。きちんと見れば全然似ていないのだが、ぱっと見の色の感じがもうだめである。冷光については、本当に息を呑むほどうつくしい。冷光を発しながらふわりふわりと飛行する様など幻想的としか言いようがない。

 この冷光がなぜ進化的に有利だったのかについての説明は種々あるが、とにかく事実として光るタイプのホタルは配偶行動にこの冷光を活用する。光を放つリズムや飛び方などに種ごとの特徴があり、冷光を活用して生殖に至っているのである。

 子をなすことは善いことだとする考えからすると、幻想的な光を発しながら同種に通じるサインを送り、交接に至るホタルは善である。なんともロマンチックであろう。

 さて、北米にはとんでもないホタルが実在する。フォトゥリス(Photuris)属のメスなのだが、このフォトゥリス属のメスは、フォティナス(Photinus)属のメスのパターンを真似て冷光を発し、フォティナス属のオスを誘引する。引き寄せられたフォティナス属のオスは――フォトゥリス属のメスにより頭からむしゃむしゃと食われてしまう。ホタルは通常成虫になると肉食を止めるというのに、とんでもないやつである。

 さて、フォティナス属のメスの発光パターンを真似てフォティナス属のオスを誘引して食べてしまうフォトゥリス属のメスは、生殖を邪魔する大悪党だろうか?

 フォトゥリス属のメスにも言い分はある。何も虐殺がしたくて食っているわけではない。フォティナス属のオスは有毒で、フォトゥリス属のメスはこの毒を体内に取り入れることで捕食者から身を守る力としているのである。もちろん生存確率があがれば生殖の公算も大きくなる。

 このような場合「子をなすことは善である」とする正義はいったいどのような行動を善として推奨すべきであろうか……?

 もう一例挙げよう。原生代のシアノバクテリア他の酸素発生型光合成細菌は嫌気性細菌の多くを大量絶滅させた。当時の地球において基本的に酸素は猛毒であり、地球規模の大虐殺である。この出来事は「大酸化イベント(Great Oxidation Event)」と呼ばれ、多くの尊い命を奪った。何の罪もない嫌気性細菌がほのぼのと増えていたのに、猛毒の酸素での大虐殺である。これは悪逆非道であろうか? ちなみにこの大虐殺によって地球は酸素の星として歩み出すことになり、今この瞬間も我々は呼吸ができているわけである。さて、正義は「大酸化イベント」をどう評価すべきであろうか。

社会性昆虫のワーカーたち

 「生きるための戦いは仕方がない」
 「子をなす努力の過程で他を殺してしまうのは許容される」

 まだこう言うことができるだろう。そして、

「これだけ真摯に戦いが行われているのに生殖しないとは何事か」

 といよいよ正義の怒りに火がつくかもしれない。さあ、次だ。「子をなすことを善」とする人々はこの事実についてどう評価するであろうか。

「セイヨウミツバチなど社会性のハチのワーカー(働き蜂)は生殖しない」

 これは小学生でも知っている事実であろう。ハチのコロニーでは女王がオスと交尾して子を産み、ワーカーは子をなさない。「自然に訴える論証」を認めるならば、この社会性昆虫という自然の前に「子をなさない個体」を容認しなければならない。

 ワーカーは女王の生殖に寄与しているからたとえばまだ「独身者に高額納税を課すべきである」などと言うことはできるかもしれないが(実はできない。後述する)、少なくとも「自然」を根拠に「子をなさない個体」は悪であるとは言えなくなってしまうだろう。

 ちなみに、進化的にどうしてこんなことが起きてしまうのか? 子を産むのは女王でワーカーは利他的に奉仕するだけして子を残さずに死んでいく。子を残せないワーカーがなぜ現代まで生きのこっているのか。これについて非常に簡単に説明すると女王とワーカーは一部遺伝子を共有しており、女王の成功は遺伝子のプール内で勢力を強めることに寄与するためである。今回は特に平易を心がけているので、計算については記載しないが、女王が多数の他コロニーのオスと交配することを考慮しなければ小学生レベルで考えることができる。この偉大な発表について確認したい人もあろう。初出は「Hamilton, W.D. (1964)Journal of Theoretical Biology」である。初学者向けの邦文の概説書も死ぬほど出ているし、なんなら検索をかければ計算を含めて解説しているものにあたることもできるので今使っている便利な箱あるいた板で勉強してもよい。素晴らしい時代だ。

 さて、ここで余話。上のハミルトンの血縁淘汰から「自然に訴えて」「以下のいずれがより正義であるか」確認しよう。

①「独身男性による高額納税。この税金は子育て支援に使われる」
②「独身の兄によるスーパーお見合いお節介による弟くん妹ちゃんの成婚。なお弟くん夫婦と妹ちゃん夫婦はそれぞれ2人の子をなした」

 残念なことに本論では女王とワーカーの関係に関するエレガントな計算式を省いているので、ぱっと理解できないかもしれないが①と②で自然に訴えてより正義であるのは②である。「独身の兄」と「弟くん」「妹ちゃん」は遺伝子を赤の他人より多く共有しており、その成婚と子の誕生は遺伝子の勢力拡大に圧倒的に寄与する。

 そもそも①は正義なのだろうか? 「子を産むことが正義にかなう」と考える人はそれはそうだろうと言うかもしれない。人の種の保存に寄与するのだから……。

 だが、これは進化論の常識に照らせば否定される。種淘汰など噴飯である。

 インドのサルの一種であるハヌマンラングールは大人のオスが多数のメスを引き連れるハーレムを形成する。このハーレムのヌシであるオスAにオスBが闘争をしかけ、ハーレムを乗っ取ることは日常的なことだ。さて、ハーレムを乗っ取ったオスBは何をするであろうか? メスが抱えている乳児を皆殺しにするのである。これは異常行動ではない。ハヌマンラングールのオスは必ずそうする。これは進化論的に見て何らおかしなことではない。オスAとメスたちの子である乳児を皆殺しにすれば、さっさと乳汁の分泌を止められ次の妊娠への準備にかかる時間を縮められるし、乳児育成にかかる浮いた育成コストを使ってオスBがメスを孕ませオスBとの子を育児させることができる。こちらの方が、よりオスBの遺伝子を残せる。オスAの子はオスBにとって同種の子? だからどうしたというのである。自然の摂理に従えば皆殺しにすべきである。同種は仲間などという考えは噴飯ものの幻想だ。

 さて、近親者でもない者たちのために独身者が高額納税して子育て支援を行うことは自然に訴える論証に照らして正義であろうか? 「同種だから」という理由で献身を行うべき理由は自然に訴える論証からは見当たりそうもない。淘汰の単位が種ではなく遺伝子だからだ。「種を保存しよう」という傾向は生物学的検討からは見当たらないのである。見出されるのはせいぜい「自らの成功率を損なってでも他の遺伝子の成功率を高めようとする傾向が全く見られない、利己的な遺伝子」であろう。

雌雄間の進化的軍拡競争

 まだ何かあるのか……とげんなりしてきた頃だろうか。もう少しで終わるから我慢してほしい。以上のような議論を受け入れてなおまだ「自然に訴える論証」を堅持しようと言うのであれば、性的対立を持ってこよう。

 先程のハヌマンラングールのオスによる子殺しも、子殺しをしたオスにとって有利でメスにとってたまったものではない好例だが、他にもうひとつ。

 キイロショウジョウバエのオスの精液はメスの産卵度をあげ、他のオスとの再配偶の欲求を減少させるが、この精液はメスにとって有害で寿命を低下させるとともにメスの他の産卵機会を損なう。

 さて、メスの戦略はどうだろうか。サルによる子殺しはオスの成功に寄与するが、メスにも策はある。

 チンパンジーのメスは乱交する。なぜか。大量のオスとまぐわい、産まれた子の父親が誰かわからない状態にしてしまえば、オスはうかつに子殺しができなくなってしまうからである。実際、チンパンジーのオスは見知ったメスの抱える子を殺さない。自分の子でないかもしれないのにだ。メスはなかなかうまくやったものだろう。感心する。ちなみにだが、見たことのないチンパンジーのメスが子ザルを抱えていた場合、チンパンジーのオスはメスに襲いかかってその子ザルを殺害する。絶対に自分の子ではないのだから、そうなる。ゲーセン等で奇声を上げたり腕を振り回す人達を指してチンパンなどと言うことがあるが、チンパンのえげつなさをナメない方がいい。リアルチンパンはそんなもんじゃない。

 さて、以上概観でわかってきたと思うがオスとメスの最適戦略は異なる。「自然に訴える論証」を用いるのであればヒトにどのような正義を敷くべきであろうか? 他の男との性行を防止するために女性に貞操帯をつけてみたり、妥協した男と結婚しつつこっそり優秀な男と性行して子を孕むべきだろうか? 「自然に訴えるならば」「調停」などという生易しい言葉はない。生物にあるのは赤の女王レース、進化的軍拡競争である。軍拡をやめ、レースを止めるのは「自然に訴えるならば」「不自然」であり「悪行」である。我々は戦わねばならない!

 もちろん、自然界に「協調」は存在する。「掃除魚」として知られるホンソメワケベラはチョウチョウウオやギンガメアジなど珊瑚礁に住まう魚たちに付着した寄生虫を食べて「掃除」する。掃除してもらう魚たちはホンソメワケベラを捕喰しない。口の周りにきても、むしろホンソメワケベラを驚かさないように慎重に静止している。お互いに利のある共生関係である。やっぱりいけるじゃないか! いや、そうはならないのである。ニセクロスジギンポという魚がいる。ニセクロスジギンポは自らをホンソメワケベラと誤解させて他の大型魚に安全に接近し、鱗や皮膚を囓りとる。

 ここから次が導かれる。お互いに利益が得られるならホンソメワケベラと珊瑚礁の魚たちのように協調すべきである――そして、そのような互恵的な協調関係を見つたら、ニセクロスジギンポのように嬉々として何のコストも払わずにフリーライドすべきである。もちろん進化論は更に、フリーライダーを排除するよう淘汰圧をかけるだろう。

 利益があるなら協調せよ。協調関係を見つけたらフリーライドせよ。フリーライダーは追放せよ。バレないようにフリーライドせよ――「赤の女王レース」「進化的軍拡競争」が始まった。自然界にみられる協調をもって、そうやすやすと「調停」できると考えたら大間違いである。

(余談)
 ちなみに。生物学的な進化的軍拡競争、雌雄間の対立についてはマットリドレーの「赤の女王」という好著があるのでぜひ一読されたい。

シブリサイド

 しつこい! と言われそうだがあと少しだけ、お願いだから話を聞いて欲しい。シブリサイド(兄弟姉妹殺し)である。

 ナスカカツオドリは2つの卵を産むが、早く孵った子は遅く孵った子を巣から追い出し死に至らしめる。利点は明白だ。親の給餌を独り占めできる。

 というわけでオスメスだけでなく兄弟姉妹でも最適戦略が異なる。良い私立に行きたいが親には十分な金がない……。悩んだお兄ちゃんが妹ちゃんをぶっ殺して浮いた教育資金で私立にいくための金が確保されたことに安堵するのは「自然に訴えれば」正義である。

 もう具体例をあげると疲れるだろうからさらっと述べるが、上のお兄ちゃんと妹ちゃんを見ればすぐにこのことが思い至る。「妹ちゃん殺されるのは親の遺伝子の成功率から見れば不利じゃんか」。そのとおりである。悪夢のような現実だが生物学的事実として親と子の間にも最適戦略上の対立がある。親子間コンフリクトと呼ばれる。親と子の絆など、笑わせる。親は妹ちゃんを守ろうとするであろうから、お兄ちゃんはバレないようにこっそりと妹ちゃんを始末すべきであろう。親は子を監視すべきであろう。さて――どう正義を組み立てるべきか。

自然に訴える論証に戻る

 さて、楽しい楽しい生物観察はいったんここで終わりにしよう。これでもまだ「自然に訴える論証」から正義を組み立てるプロセスを擁護するだろうか。

イマヌエル・カントが唱えた義務論はロールズの無知のヴェールなどで洗練され(もちろん無知のヴェールには批判があるが)、ベンサムが唱えた功利主義は、規則功利主義や選好功利主義など華やかな亜種を生み続けている。非哲学徒にもちょっとした話題になった「これからの正義の話をしよう」のサンデルが掲げるコミュニタリアニズムなどもある。

 これらの洗練された正義の試みではなく、あえて「自然に訴える論証」を採るべきだろうか。今までの生物学的に自然な事実を概観したところ、自然であることを基礎として正義構築の営為を行えば、サイコとしか言いようのない滅茶苦茶な正義が組み立てられそうだが大丈夫だろうか。それらは既存の正義――義務論や功利主義やコミュニタリアニズムを撃破できるほどのものに仕上がるだろうか? とてもそんな見込みはないように思われる。

 正義を構築するための道具として自然に訴えるのは――はっきり言って使えないので道具として放棄すべきである。哲学徒も生物学徒も勘弁してくれと言っているのである。ほんと、勘弁してください。

余話「なぜ生物学的に考えて子を産むべきだと思ってしまうのか」

 哲学徒や生物学徒や同性愛者(無性愛者なども)がいいかげんぶっ殺すぞと言いたくなる「生物の目的は子をなすことなのだから子を産むべきだ」という主張。以上をもってくだらない主張だと結ぶのもよいが、この主張自体は興味深い知的研究の対象となっている。今回挙げたような「生物の目的は子孫繁栄なのだからヒトは子をなすべき」論は世界中で見られる。今までたくさんの生き物を私たちは見てきた。知的直感力が磨かれたみなさんは鋭い疑問に思い至ったことだろう。

「もしや――ヒトにはこう考えがちな機能が備わっているのでは?」

 ビンゴである。以下に示される解説は全てジェシー・ベリング「ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能」からひいている。

 ボストン大学の心理学者デボラ・ケルマンらは7~8歳児に対して「なぜ山が存在するのか」と問うてみた。子供たちの回答はたとえばこうだ。「動物にのぼる場所を提供するため」。科学的に正しい説明――つまり「たとえば噴火した火山が冷えて山になることがある」などよりも前者の傾向が圧倒的に強い。子供は小学四年生~小学五年生くらいになってくるとこのような問いに対して科学的に正しい説明を選びがちになっていくようである。前者のような「なにかはなにかのためにある」という推論を「目的論的推論」と呼ぶ。「シャワーヘッドは管の中の綺麗な水をかけてたとえば体を綺麗にするためにある」という目的論的な発言は正しい。シャワーヘッドはそのために作られたからだ。しかし「滝は体を清めるためにある」という目的論的推論は過剰であり、端的に誤りである。しかし、低学年の児童にはこの傾向がある。

 ちなみに、放っておいても子供は成長すれば過剰な目的論的推論を放棄するのではないかという予見は誤っている。デボラ・ケルマンおよびクリスタ・カスラーは教育を受けていないおとなのジプシーに対して同様の調査を行い、彼らが目的論的推論を好むことを明らかにしている。

 つまり、ヒトは元々過剰に「何かがあるのは何かの目的のためだ」という思考を持ちがちであり、教育によってそれを矯正されているのである。アルツハイマー病でこの矯正が損なわれた患者は目的論的推論をまた好むようになる。

「ヒトはなぜ生物の目的は子を産み種を維持すること」と言いがちなのか。

いやそもそも、

「ヒトはなぜ無目的な自然淘汰の結果に過ぎない生物の傾向に対して(生物学者が1900年代からずっとブチギレ続けているにもかかわらず)ありもしない目的を見出そうとするのか」

 この疑問に対する回答は次のようである。

「ヒトは無生物を含みなんにでも、それが存在することに何か目的があると考えがちな、生物学的機能を有しているからだ」


 さて、ここで「生物の目的は子をなすことだから子を産め!」論者に対して憤る人達に、念のため警告である。彼らに対して「お前等は7~8歳児程度の知能しかないんだよ」とか「小学四年生でもそんな考え方しないぞ」などとは言うべきではない。単純に品性下劣で知的に洗練された人間のすることではないというのもそうだが、目的論的推論を維持し続けながら極めて知的な営為を行っている人々は大勢いる。本項はなんという書籍を引用して語られたか思い出してほしい。

「ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能」

 ジェシー・ベリングの推測は、神を信じる理由は目的論的推論の副産物である。本書には神のようなものをヒトが見出してしまう状況を実験室レベルで再現する実験も行われている。神を信じることの理由の全部でなくとも一部に目的論的推論機能が関わっているとしよう。このとき我々は神を信じるという目的論的推論を維持しながら素晴らしい知的成果をあげている研究者を山のように挙げることができる。あなたがよほどの知性の持ち主でない限りほぼ確実に、あなたより知的に優れた目的論的推論維持者は存在する。下手なことは言うものではない。

 また、もう一つ警告。知的な人間にありがちな傲慢だが「啓蒙」の力を過信してはならない。「目的論的推論」機能については学校教育により科学的に正しい判断に置換されることが研究により示されているが、あらゆる問題が「啓蒙」「教育」でたやすく解決するわけではない。

 行動主義心理学で有名なワトソンは「子供を私に預けてくれれば弁護士にでも泥棒にでも育て上げてみせる」という趣旨の発言をしている。1ダースの子供をどのような職業の大人にでも育て上げられるというわけだ。このような考え方を「心は空白の石版である」とする「タブラ・ラーサ」と呼ぶ。

 これが事実なら喜ばしいが……現実はそうではない。たとえばスティーブン・ピンカーが「人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か」という著作で様々なエビデンスをもとにこの考え方に反駁している。「タブラ・ラーサ」は人間について環境要因を重視しているが、ピンカーなどは「タブラ・ラーサ」は生得的要因をあまりにも無視しているというわけだ。真実や正義を教える教化でなんでも解決すると思ったら大間違いである。

 このことから何が導かれるであろうか。つまり本論についても啓蒙的効果はおそらくたいしたものではないということである。悲観的事実だ。ただ、それでも。筆者は子供の頃生物図鑑を見るのがとても、とても楽しかった。本論にて、様々な生物の生き様を垣間見る作業は……少しだけでも、楽しかったのではないだろうか? もしそうなら、筆者はそれでじゅうぶん嬉しい。

おわりに

 以上をもって「生物学的に考えて子を産むべきか」という疑問への検討を終える。注意していただきたいのは本論で検討したのは「生物学的に考えて子を産むべきかどうか」である。「子を産むべきかどうか」ではない。「子を産むべきかどうか」という問いについてはまた別の議論が必要になるであろう。少しだけ触れた独身税を課すべきかどうかも同様である。あくまで、生物学を根拠にしてそれらを正当化するのは馬鹿げていると本論は述べたに過ぎない。それらを主張するなら、別の根拠を持ってくるべきだと言っているのだ。つまりこのnoteで言いたいのは誤解や浅薄な理解で生物学を振り回し、政治的に変な使い方しないでください、ということである。筆者の属する派閥は分析哲学、つまり筆者は哲学徒だが、生物学を適切に理解せず悪用されてうんざりしている生物学徒は見ていてあまりにも可哀想なので本当に勘弁してあげてほしい。少なくともダーウィンが現れて以後、ずっと生物学徒は迷惑している。そろそろ彼らを慮ってあげるべきだ(そしてそのようなお願いがおそらくなんの効果もないことは先述のとおり……)

 ちなみに、「子を産むべき」とは真っ向から対立する思想である「反出生主義」についても検討を行っている。興味があれば以下参照されたい。

 以上、少しでも楽しんでいただけたならば幸いです。スキの♡を押してもらえるとちょっとだけうれしい。

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