心の哲学におけるクオリアに関する物理主義、随伴現象説、相互作用二元論の検討(メアリーの部屋、哲学的ゾンビ、現象判断のパラドックスを用いて)

要約

心の哲学におけるクオリア問題について、私見を整理検討する。まず「心の哲学」と「クオリア」について簡単に述べるとともに、何が「問題」とされているのか確認する。次に、「問題」についての立場として「物理主義」「随伴現象説」「相互作用二元論」を挙げ、それぞれの内容を確認する。さらに、議論に用いられる「メアリーの部屋」「哲学的ゾンビ」「現象判断のパラドックス」についてその内容を確認し、各議論についての各立場の応答を確認する。検討により筆者は「物理主義」の採用が望ましいと結論する。通史的な説明・哲学者の紹介を可能な限り排し問題にのみ注目することとし、術語も必要最小限に留め、やむを得ず用いる場合は本noteにおける定義を述べることとし、平易を心がけた。なお、本noteは出典を明記いただければ無断で一部または全部を引用・転載・利用して差し支えない。

心の哲学におけるクオリア問題について

心の哲学について

「心の哲学」とは何か。心の哲学においては様々な問題が扱われるが、本noteにおいてはもっぱらその中で最もよく議論される心と体の間の関係についての哲学を扱う。そのため、心の哲学の全容についての議論は避け、本noteでは「心の哲学における心身問題」についてのみ上のように理解すれば問題ない。上の説明では抽象的に過ぎるであろう。特に問題は心である。体については物理的に確認できる肉体を指しているため容易に理解できるが、これと関係する心とはそもそも何であるのか。これについての明晰な定義は「心の哲学」における各立場について異なるため、ここにおいて一義的に定義することは避ける。たとえば心と言われて「怒ったり笑ったりの精神的なはたらき」について思い浮かべて悩まない人もいるかもしれない。あるいはそれについて「……つまり脳の働きなのでは? ならそれは体について語っているのであって、体と関係する心とは?」と首を傾げる人もあるかもしれない。いずれにしてもそのまま進んで差し支えない。

クオリアについて

クオリアとは感覚的な体験に伴う独特の質感のことである。赤いリンゴを見たときに感じる赤い感じとしばしば説明される。これについても説明が蒙昧だと解されることだろう。これについての見解はクオリアに係る哲学的立場により複数あり、対立しており、後述の「物理主義」「随伴現象説」「相互作用二元論」の確認においてそれぞれの立場でより詳しく述べられることになろう。

何が問題なのか?

「心の哲学における心身問題」つまり心と体の関係についての問いは、長い歴史を持つ議論であるが、通史的な整理を目的としない本noteではそのなかでもクオリアを巡る論争――近現代の問題についてのみ確認する。クオリアを持ち出しての哲学的な問題提起は、心、あるいは意識についてのアプローチについて神経科学、認知科学等の自然科学的手法を用いることへの批判として行われた。もっと大胆に「物理的問題が全て解決すれば意識に関する問題は一切残っていない」とする立場への攻撃と換言するとよりわかりやすくなるかもしれない。いずれにせよ、自然科学的手法や物理的問題など、輪郭を明らかにしたい言葉はあるのだが本noteの趣旨から大幅に逸れていくため於く。この問題提起は次の性格を持つ。
「クオリア、つまり林檎を見たときのあの赤い感じの主観的意識体験とはそもそも何なのか。既存の手法ではこれを説明することができないのではないか」
この問題提起が何を指しているかについてはおそらく後述する「哲学的ゾンビ」に関する説明でより具体的に把握することができると考えるため、これ以上の詳述は避ける。簡単にまとめると、今の科学の手続きで解明できる全てを解明してもクオリアについて知ることはできない。よってこの問題を解決するための新たな手法が構築され、それによってクオリアについて理解されねばならない――という問題提起とこれへの応答という形で議論が行われている。次の項目では、この問題提起についてどのような立場があるか、3つ確認していく。

クオリアの問題についての3つの立場

はじめに

先述されたクオリアと科学の手続きにかかる問題について、3つの立場を紹介する。しかし、これは極めて簡略化されたものであり詳細にはより多くの細かな立場が存在することに注意されたい。本noteでは全ての立場について網羅するものではない。後の理解のためひとつ術語を導入する。「物理的領域の因果的閉包性」である。堅苦しい言葉だが深遠な概念ではない。「どんな物理現象も物理現象のほかには一切の原因を持たないとする性質」をこう呼ぶ。本noteの問題意識になぞらえて具体的に説明するならば「我々の意識に関する脳内の物理現象は、我々の心という物理法則の外側にあるものによって影響を受けている」とする立場は「物理的領域の因果的閉包性は破れている」と考える。逆に「我々の意識に関する脳内の物理現象は、あくまで物理現象の範囲で完結している」と考えるならば(そして全ての物理現象はそのようにして完結していると考えるならば)「物理的領域の因果的閉包性は閉じている」と考える。この術語を交えて3つの立場を確認していく。

物理主義

この世界の全ての物事は物理的であり、全ての現象は物理的な性質に還元できると考える立場である。既存の科学の手続きで意識に関する問題は全て解決されるとする。「物理的領域の因果的閉包性」については閉じていると考え、つまりは物理的に全知であることはクオリアについて全知であることを含意する。先のクオリアに関する問題提起で矛先を向けられたのが、この物理主義である。

随伴現象説

クオリアは物理現象と別に存在するが、物理現象に付随しているに過ぎず、クオリアは物理現象に対して何の影響も与えないとする立場。この立場では、クオリアが物理的な事柄について何の影響も及ぼさないため「物理的領域の因果的閉包性」は物理主義同様に閉じている。しかしながら、物理現象に付随するに過ぎないものだとしてもクオリアは実在しているのであるから、物理的に全知であっても単にそれをもってクオリアについて知識を持っていると言うことはできない。厳密には異なるのだが、随伴現象説に近しい論陣がこのクオリアに対する論争を物理主義に対して仕掛けている。余談であるが、筆者周辺の非哲学徒に非常に人気の高い立場である。

相互作用二元論

クオリアは物理現象と別に存在する。また、心的なものは物理現象と相互に影響を与え合うというのが相互作用二元論である。心と体が相互に影響を与え合っていると言い換えることもできる。「物理的領域の因果的閉包性」はもちろん心による作用によって破れていると考える。余談。筆者の私見ではこの立場は哲学徒からの人気はあまり高くないのだが、実験哲学者ノーブとニコルズによる調査により、この世界は決定論的だが人がなす選択だけはわれわれの宇宙において「物理的に観察可能なレベルで」自由なのだと90%超の人が考えていることは注目に値する(本noteでは極力哲学者の名を出さないようにしているが、気になる哲学徒が多いトピックと思料し、本件についてはどうか許されたい。筆者にとっては落雷を受けたような衝撃的事実であり、この事実を恥ずかしながらいまだに感情的には受け入れられていない。本調査についての概略的な入門書に「実験哲学入門」がある)。

3つの思考実験について

はじめに

クオリアをめぐる問題はなにが問題なのか、どのような立場があるのかを外観した。次に、ある立場が自らを正当化し別の立場を批判するための思考実験を3つ紹介したい。なお、クオリアをめぐる思考実験はこの3つに留まらないので全てを網羅したわけでは全くないことに注意されたい。あくまで本noteの議論を進めるために必要最小限度のものを用いることとしている。

メアリーの部屋

メアリーという女性がいる。メアリーは特殊な部屋に引きこもっていて、白黒以外の視覚経験を得たことがない(白黒しか見たことがない。閃輝暗点
などは? などと意地悪なことは思考実験なので考えてはならない!)が、彼女は物理的問題について全知であり、たとえば熟したトマトの視覚情報が物理的にどのように処理されるか詳述することができる。そしてそのトマトの色について彼女は当然「赤い」と判断することができる。彼女は部屋から出てはじめて青空を見たとき、何か新しい知識を得るだろうか?[メアリーを物理的全知としたバージョン。メアリーがどの程度の物理的知識の持ち主なのかは論争がある]

(本noteのために簡略化したものであることに注意、議論の際は必ず原文を辿ること)

(相互作用二元論)
この思考実験は物理主義への批判として提案されている。この実験について最も迷いがないのは相互作用二元論者である。相互作用二元論においては、先述のとおり「物理的領域の因果的閉包性」は破れている。メアリーは外にでた瞬間、青空についてのクオリアを得て、その非物理的な心的状況は脳という物理的な領域にあるものに影響を与える。物理的領域とは別に心的領域が存在し、心的領域についての青色についての新しい知識を知ったのだから、メアリーは新たなものを知ることができた。物理的に全知であっても我々には明らかにできていない知識がある。相互作用二元論が正しく、物理主義は誤っている。我々は新たに知識を得るための手続きを構築せねばならない――とするのが相互作用二元論だ。

(随伴現象説)
随伴現象説を採る者については「メアリーの部屋」への誤解が非常に多い。物理主義へ攻撃を行うものとして「メアリーの部屋」と後述する「哲学的ゾンビ」は手を携えるものであると考えている者もあるほどである。だが、両者は全く別の性格を持つ思考実験だ。随伴現象説をフォローするものは「哲学的ゾンビ」であり「メアリーの部屋」ではない。しかしながらこの点を把握するためには後述する「哲学的ゾンビ」ならびに「現象判断のパラドックス」への理解が不可欠である。この2点を確認後、以下を一読いただければ「メアリーの部屋」が随伴現象説を支持も棄却もしないことが理解されるだろう。
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まず随伴現象説が正しいと仮定する。つまり我々の世界は物理領域の因果的閉包性が閉じている。次に「哲学的ゾンビ」を「メアリーの部屋」に適用する。「我々の世界のメアリー」は青空を見て「わぁ! これが青空なのね!」と言った。「ゾンビワールドのメアリー」もまた物理領域の因果的閉包性が閉じており、クオリアは随伴的で物理現象に何の影響も与えない以上、青空を見て「わぁ! これが青空なのね!」と言う。更に悲劇的なのは「現実世界のメアリー」が随伴現象説支持者であるならば、この経験をもとに相互作用二元論的でない、あくまで随伴現象であるクオリアについて新たに得た知識についての論文を書くかもしれない。そして――「物理的領域の因果的閉包性」により「ゾンビワールドのメアリー」もまた一字一句違わぬ論文を書くのである。このことから、「我々の世界」における随伴現象的クオリアについての物理主義的でない新たな知識を得るためのあらゆる努力は「ゾンビワールド」でも完全に同一になされ、またその論文の確からしさの評価もクオリアの有無にかかわらず完全に同一になされることが了解される。「我々の世界」においてのみ随伴現象的クオリアの実在性に関する知識が認められ「ゾンビワールド」において随伴現象的クオリアの実在性に関する知識が認められない、ということは「我々の世界」が随伴現象的である限りにおいて絶対にない。差異が出るならばそれは「相互作用二元論」なのである。以上により「現象判断のパラドックス」を発生してしまう。

(物理主義)
メアリーは何も新たに知識を得ないと回答する。物理主義的者の回答は様々だがここでは筆者が支持するものを挙げる。まず、「相互作用二元論」への回答について。こちらについては「物理主義」の姿勢は柔軟である。今のところ相互作用二元論者が支持するような物理現象の外から物理現象に影響を与える不思議な力については確認されていないので、我々はそれを支持しないというものである。つまり、仮に新発見があれば「相互作用二元論」に転向し新領域の研究を行うに吝かではない。それがあることが確からしくないから当面採用していないのであり、それがあることが確からしいのに否定する理由はない。心的世界から物理世界への影響でも、魔法でも、神の奇跡でも受け入れる用意はある。ただ現状それらがあることが確からしくないのでそのように振る舞っているのが物理主義者である。今回は「相互作用二元論」から「物理主義」への攻撃として「メアリーの部屋」を扱ったので、「物理主義」から「随伴現象説」へのコメントはここでは行わない。

哲学的ゾンビ

(心の哲学・ゾンビ論法における哲学的ゾンビ)
①「我々の世界」の人々は随伴現象的クオリアを持つ
②「我々の世界」からクオリアのみを除外した
 「ゾンビワールド」が想像可能である
③「ゾンビワールド」にはなく「我々の世界」にあるもの、クオリアがある
④よって物理主義は誤りである

(本noteのために簡略化したものであることに注意、議論の際は必ず原文を辿ること)

(随伴現象説)
この思考実験は「随伴現象説」が「物理主義」を批判するためのものである。「随伴現象説」の立場は上の①~④で示されているので詳述の必要はなかろう。以上をもって「随伴現象説」はクオリアについての知識を既存の科学で得られるそれとは別に求めることを正当化する。

(相互作用二元論)
極めて応答は単純である。
クオリアは相互作用的であるから、クオリアがなければ「ゾンビワールド」の人々は我々と物理的に異なる挙動を採ることになる、と主張する。
「メアリーの部屋」を引用するならば「我々の世界のメアリー」が白黒の世界から外に出て「わぁ! これが青空なのね!」と言う場合「ゾンビワールドのメアリー」が「うん、これ知ってるわ」と言うことがあり得る。両者は当然全く物理的に異なる挙動だが、相互作用二元論では心的領域が物理領域に影響を及ぼすため全く問題ない。

(物理主義)
次項「現象判断のパラドックス」にて応答する。

現象判断のパラドックス

①「哲学的ゾンビ」の論法を採用する
②「我々の世界」と「ゾンビワールド」の随伴現象説支持者を確認する
③両世界において随伴現象説支持者は同一の主張をし、同一の評価を得る
④クオリアの有無はクオリアに関するあらゆる議論に一切影響しない

(本noteのために簡略化したものであることに注意、議論の際は必ず原文を辿ること)

(物理主義)
上は物理主義者が随伴現象説支持者を批判するための思考実験である。「ゾンビ論法」を行い「我々の世界の随伴現象説支持者」が「随伴現象の知識を得るための既存の科学と異なる新たな手続き」を作成したとする。そのとき「ゾンビワールドの随伴現象説支持者」も「随伴現象の知識を得るための既存の科学と異なる新たな手続き」を一字一句違わず作成する。この手続きによって「我々の世界」では「随伴現象的クオリアとその仕組みが解明された」とする論文が果てしない努力の結果発表され、広く認められたとしよう。言うまでもなく「ゾンビワールド」においても「随伴現象的クオリアとその仕組みが解明された」とする論文が果てしない努力の結果発表され、広く認められるのである。つまり、随伴現象的クオリアの有無は「絶対に」随伴現象的クオリアの有無の確からしさの程度や、それをはかるための手続きの評価に影響しない。「絶対に」とは非常に強い言葉である。この言葉が用いられるのは、この帰結が形式的にに導かれるためだ。念のため繰り返すが、随伴現象的クオリアは物理領域に影響を及ぼさない。よって「ゾンビ論法」における「我々の世界」と「ゾンビワールド」は物理的には同一である。物理的に同一であるということは書かれる論文は一字一句どころか使われるインクを構成する原子ひとつに至るまで「我々の世界」と「ゾンビワールド」で差異がないのである。随伴現象説支持者が「我々の世界」で勝利する場合「ゾンビワールド」でもゾンビ随伴現象説支持者が祝杯をあげているのである。どちらかを勝たせ、どちらかを敗北させる方法を随伴現象説支持者は持たない。物理主義者も持たない。それができるのは相互作用二元論者だけである。相互作用二元論者は「物理領域の因果的閉包性」の破れを主張するので、「我々の世界」が勝利し「ゾンビワールド」が敗北することを当然に認めうる。

(相互作用二元論)
先述のとおり、そもそも「ゾンビ論法」の論述の流れを拒否しているので現象判断のパラドックスも生じない。よって何の痛打にもならない。

(随伴現象説)
随伴現象説支持者は、上のような物理的状況が生じることを認めつつ、「このようなとき随伴現象的クオリアとは何であるのか」および「どのようにしてそれについての知を追究すればよいのか」を述べている。しかし、恥ずかしながら筆者の浅学により物理主義側からの批判である「「我々の世界」と「ゾンビワールド」のどちらの世界においても随伴現象的クオリアの確からしさを同程度認めることになるがそれでいいのか」「それでいいなら何故それは正当化されるのか、なぜ「ゾンビワールド」においても随伴現象的クオリアはあると言うことを容認すべきなのか」についての回答を確認したことがない。これも併記できれば初学者へのよい導きになると考える。

結論

以上の検討により筆者は当面「物理主義」の採用が妥当であろうと考える。また、この世界は何が起きるかわからないので可能性として「相互作用二元論」に転向することも絶対にないとは言い切れない。そうなったならばそうなったで面白いのではないかと思う。新領域大研究時代の幕開けである。ただし、形式的な問題から「随伴現象説」だけは「絶対に」支持しないという立場である。ここで最後の問題に着手する。「随伴現象説」を採るならば「ゾンビ論法」において「我々の世界」でも「ゾンビワールド」でも随伴現象説が認められることを容認しなければならない。これは確かに直観的に気になる。だが「物理主義」とて「我々の世界」でも「ゾンビワールド」でもクオリアがないと主張してしまうことになるではないか、という指摘である。そのとおりである。「物理主義」は既存の自然科学の手続きのみでじゅうぶんだという立場だ。その手続きにおいては「あることが確からしいと認められたものをあると言い、あることが確からしいと認められないものをないと言う」のである。仮に、もし仮に「現象判断的心的現象界」なるものがあったとしても、手続きを尽くしてあることが確からしいと確認できなければあるとは言わず、そしてそのことを「物理主義」は容認するのである。我々の世界にはもしかしたら他にも一切の物理的手続きで観察できないゴブリンがいるかもしれない。ユニコーンがいるかもしれない。だが、物理主義者はそれらをあるとは断じて言わないのだ。もっとラジカルにいえば、そんな「現象判断的心的現象界」なるものが「ある」というのは「ある」という語の意味からしておかしい、そんなものは「形式的にない」のである、つまり「絶対にない」のだ、「不可能」なのだなどという人もいるかもしれないがそれは別の哲学的問題に逸れていくので於く。これに対し、おそらく非物理主義者が抱く不満は「物理主義者が物理主義の視点で見ればクオリアがないと言うのは当然じゃないか。我々はその姿勢を批判しているのだ」というものだろう。先の通り近現代のクオリアにまつわる議論はまさにこうした物理主義的な態度への攻撃として幕を開けたものだと我々は確認している。だから非物理主義者がこの不満を持つのは当然のことだ。しかし、先述のとおり「メアリーの部屋」と「哲学的ゾンビ」の思考実験を概観したところ、「物理主義」に修正を加えるべき理由は特段見当たらなかった。

(捕捉1・やや詳しい人向け)
「力」のようなものとして「クオリア」を措定するのはどうか、という考えがある。ただ、これは「随伴現象説」を認めるべき理由にはならない。「物理主義」を崩すことなく可能である。ヘテロ現象学を参照されたい

(捕捉2・メアリーの部屋について)
物理主義者の中には部屋からでたメアリーが「ふん。知っていたわ」と言うだろうと主張する者もいる。だが、私はこの考え方に与しない。メアリーは「わあ! これが青空なのね!! 初めて知ったわ!」と言いうるとすら考えている。そして、それは「物理主義」に何らの痛痒を与えないと考えている。メアリーがそう口にしたこととメアリーが知識を得たかどうかには何の関係もないからだ。さらには、メアリーの身体が青空を感知し情報処理したことによりメアリーの脳にそれと対応した色覚処理関係の変化が起きたとしても、それはメアリーが知識を得たかどうかとは何の関係もない。このことは、「自転車の乗り方」を考えてみるとわかりやすい。外に出た物理的に全知のメアリーはどのようにすれば自転車を安定して漕ぐことができるか詳細に説明することができる。しかし、自転車に跨がって漕いだメアリーは何度も転倒を繰り返す。そして日が暮れる頃ようやく縦横無尽に自転車を操作することができるようになり「やっと自転車の乗り方がわかった!!」と叫ぶのである。これは物理的に全知のメアリーが物理主義では得ることのできない知識を獲得したということにはならない。ただ、このあたりはやはり近接する哲学の別ジャンルに逸れていくので於く。

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