「新しい時代」への応答のための準備作業(4):(不)可能なアルゴリズミック・コンポジションの周辺を逍遥する
人間は、今我々の生きている文明の中で形成され、維持されてきた意識の様態の下では、 言葉なしで生きることはありえない。過去の記憶と未来への予期という時間の中で 自伝的な「自己」を形成し、維持していくことは、そもそも言葉なしには可能ではない。 そしてそのような自己の様態は例えば法的な権利・責任といった倫理的な価値が 成立するための根拠になっている。
言葉を紡ぎ、文字を書いて定着させることは、一見すると記憶にとって二次的なものに見えるけれども、 実際には時間の構造の具体的な在り方、その複雑さの度合いを決めるにあたっては 決定的なものであるはずだ。
と同時に、そうした外部記録手段は、個体の経験した事柄をその個体の個別的な経験に留めるに留まらず、 その個体以外の個体への伝播を、しかも世代を超えた伝播を可能にした。生物学的な次元での遺伝においては、 個体の経験は次の世代に継承されることはないのに対して、文化的な次元での継承は、ある個体が達成したものを 個体の死を超えて存続させ、発展させることが可能だが、それは言語を獲得し、ダマシオの言う自伝的自己を形成し、 維持することに基づいている。
だが言語がもたらしたものは、そうした微視的な個体の生きる時間の構造と、複数の個体間で編まれて行く 歴史的な時間の構造の次元だけではない。過去の記憶、未来の予期が可能になることは、今現実に生起して いないことを仮想することでもある。言語を持つことは命題をホワイトヘッド的な意味合いで、肯定的にのみならず、 否定的にも感受することであり、ありえたかも知れない可能世界の重なりを、まだ起きていないこと、起こりそうに ないこと、起きなかったことも含めて認識するという、想像力、構想力の働きと本質的な関係を持つ。 想像力、構想力と呼ばれる心の働きは、価値論的(倫理的・美的)な極限を想像することを可能にし、 驚異の感情や崇高の感情を抱くことを可能にし、更には、人間の生物学的な環境世界とは異なった 抽象的な世界を形成することを可能にする。その時人間は、 一つの世界を生きているのではない。一つの世界の分岐する可能な径路からなる世界を生きているだけでもなく、 それとは異なる想像上の領域を産み出し、その中でも生きている。
その一方で、そうした事実、一見したところ所与に見えるものは、実際には、生物学的な進化の基盤の上で生じた偶然に過ぎず、 更には、そうした基盤の上で成立した社会的・文化的な領域の動的な発展の産物に過ぎない。人間の意識がこのようなもので あるのは、地質学的、生物学的な視点からすればほんの一瞬の期間に過ぎないし、今後も系固有の力学によって、地質学的、 生物学的スケールと比べれば比較にならないほどの速度で変化していくだろう。その速度は今のところは人間の個体の 生物学的寿命を追い越すには到っていないが、ほんの1世紀後のことを予測するのが困難な程の速度で変化していて、 我々の世代は人間が、意識の持ちかたも含めて、今現在のようなあり方をしている時代から、異なったあり方へと 移行する、カーツワイルの言う技術的特異点の手前で個体の寿命を終える、ほぼ最後の世代になるという可能性すらある。
特異点の向こう側から今の我々の意識のあり方を眺めたらどのように見えるのかを想像することは困難だし、 我々にとって乗り越え難い障壁であるように思われる個体としての限界がなくなったとき、 価値基準がどのように変化するかを想像することは難しい。その時、我々の今生きている文化的・社会的な 存在様態の記録は、理解不能な考古学的遺物になってしまうかも知れない。ただし、そうした特異点の 向こう側の領域というのは、それ自体、多重に存在する世界の一部の領域に過ぎず、地質学的・ 生物学的基盤に拘束されたまま生きる生物も存続し続けるだろうし、 現在のような生き方を続ける人間も存続するのかも知れない。
そもそも現在のような生き方といっても、異なる社会においては異なった意識の様態をもった人間がいる可能性だってあるし、 同じ社会においても、意識の様態は個体によって大きく異なるだろう。 もしかしたら意思疎通が困難であったり、価値観の共有が困難であるくらい様態が異なるということもありうる。 通常価値観の相違と言うとき、共通の生物学的・社会的文化的基盤の土俵の中でのことだという暗黙の前提があるものだけれども、 それすら自明ではないのだ。
いずれにせよ明らかなのは、私という個体の意識は、多重に広がる世界のうちのほんの一部の世界にしか棲んでいないということだ。 その世界の中には、他の個体の意識と共有している領域もあれば、極私的な領域もあるかも知れない。 ある個体の展望自体は原理的には私的で交換不可能なものだが、他の個体に伝達し、交換できる ような媒体に自分の経験を移し込むことは可能だし、そもそも現実に私が棲んでいる多重世界の一部は、 そのような媒体によって私の中に引き込まれた他者の展望であって、私というのは、そうした 複数の他者の声が反響する場の如きものなのかも知れないのだ。
事実として、私が生きる世界は、私が感覚器官を用いて知覚し、認識する環境世界だけではない。 その中には数学的オブジェクトが存在する世界もあれば、意識そのものの構造についてのモデルが 存在する世界もあれば、自分の経験したことのない、ある日に他者が認識し、経験したことを、その時のその他者の心の動きの 記録もひっくるめて封じ込めた「作品」の世界もある。寧ろ、そうした「仮構」された世界の占める割合の方が多いかも 知れない。
それもまた、ある社会・文化の中の成員の中でも個体差が極端に大きいものなのだろうが、その多寡の価値はおいて、 事実として、抽象的であったりヴァーチャルであったりする世界の中にいる時間が長いような生き方をしている人間もいるし、 そうでない人間もいるのだ。
そのことが価値的に優越するかどうかはおいて、でも、私は自分が経験したものの中で、自分の生きる世界の価値の システムを構築してきたし、それを否定することはできないと感じている。その理由は明確で、自分の生きる世界の 価値のシステムは、私が一人で勝手にでっち上げたものではなく、私の中に棲むようになった他者達の ネットワークから自ずと生起してきたものであって、私の恣意でどうにでもできるものではない、 寧ろそれは私が自分をそれに従属させるべき規範の如きものだからだ。
自己再帰的な仕方で、その価値は、私がそれが存続・発展することを是とするような個体の意識の様態の存続・ 発展にとってプラスになるようなものだし、社会的・文化的な価値の領域でも、生物学的な進化の領域と同様、 生存競争はあって、存続するためには複製し、その価値を明らかにし、あるいは変形して新たなものを 創造することでより優れた価値を示すことが必要なのだ。 散歩しつつ、自分の頭の中で行う孤独で私的な作業もまた、完全に孤独で私的なものではありえない。 生物としての私が遺伝的に決定されているのと同じように、意識として私もまた、 文化的、社会的に幾つものレベルで決定されていて、私はそうした制限の中でやれることをやるしかないのだ。
勿論、全く私的なものではないとしても、その価値の空間に棲む個体の数は多くはないだろう。 でもそれは極控え目に、価値中立に言って、生態系的なニッチではあるはずだ。 広く伝播するものが長く存続するわけではない。否、ごく単純に、私は自分が見てしまったもの、 出会ってしまった、自分に優るもの、個体としての私を超越するもの との出会いを、自分の個体としての限界に屈して、墓の中に持っていき、 自分の脳が停止した途端に、その記憶が破壊され、痕跡無く消えてしまう ことに耐えられないだけなのだ。このように或る個体の意識に 思い込ませること自体が、或る種の詭計、神の見えざる手の為せる業 なのかも知れないけれど、それならそれで構わない。
個人的な印象や感覚を作品として記録することの意義については 懐疑的にならざるを得ない一方で、我々のような個体としての 意識であることを余儀なくされている存在にとって、ある個体の個別的な 経験、一回性の出来事を記録することは、とても切実なことであって、 詩作や音楽の作曲がそのために在ってもいいのではないかと私には感じられる。 勿論、私自身という個別の出来事の複合体に関して言えば、そうした 個体性を記憶されるべきは決して私という個体ではなく、私が出逢った他者、 それ自身はそうしたことに無意識か、拘りがない、でも私にとっては かけがえのない他者だと感じている。
単にその個体が存在したという事実性自体に価値を置くというやり方を とる哲学者が時折いるが(例えばジャンケレヴィッチ)、 そうした一般化自体が救い出したいと思っている個別性そのものを 蝕んでいることに対して鈍感であるとしたら、そうした言説を為す 哲学者の度し難い御目出度さを私は拒絶するし、それが哲学なら、 哲学を拒絶してしまって構わない。一見すると記録に値する 価値がないような平凡さの中に、何か存続すべき価値を見出せばこそ、 一回性の出来事を記録することが切実なのに違いない。そして ここでの個別性の記憶とは、レヴィ=ストロースが「神話」の機能と して指摘したもの、「野生の思考」の或る種の動因に他ならないだろう。
一方で、言葉のカオティックな生成に身を任せてしまい、自己をその中で 解体するに任せてしまうことに対して警戒感を持つことも、 そうしたある個体の個別的な経験、一回性の出来事を記録することに 対する拘りとどこかで繋がっているのは確実だろう。そうした姿勢は、 つまるところ個体としての伝記的な自己を持った意識というあり方の 檻から出られてない、出ようとしないということなのだろう。
自分を超える、個体に優る何かに触れるのであるか、そうした他者を 記憶する墓碑銘の如きものであるか、そのいずれかであるとしたとき、 単なる自己の中での放恣な言葉の氾濫にも、自分の経験を記録すること自体を 自己目的化することにも疑問を感じずにはいられないのだ。 この両者に共通するのは、強いて言えば書くことそのものの(無意識な) 自己目的化なのかも知れない。娯楽の提供のために、あるいは何か 相対的なイデオロギーのために書くことと、書くことの反省無き 自己目的化の間に、実用主義的でもなければ、芸術至上主義的でもない あり方があって、それに共感し、コミットしたいと感じている、 自分の心の中に広がるヴァーチャルな空間の中に棲む他者は、そうした 人々で、私はそうした人々に応答しなくてはならないと感じているのである。
言葉を持つことで自然との無媒介な合一が阻まれると考える発想、言葉が思考を 裏切るという考え方が根強く存在する一方で、言葉の外部に意識が意識で 在り続けたまま出ることはできないという関係の認識からは、2つの異なった ヒュブリスが導かれるだろう。即ち言葉の行使によるヒュブリスと、 言葉の行使を止められると思いなすヒュブリスと。だが、それは言葉だけではない。 恐らく音楽もまたそうなのだ。音楽がより自然に近いというのは、それもまた 錯視の一つではないか。だがそもそも「自然」自体が或る種の錯覚、蜃気楼の 如きものなのではないか。同様に、媒体なしの思考、素材に拘束され、 歪められない純粋な思考というのもまた、同様に錯覚ではなかろうか?
そして他方で、言葉があったから可能になったことは評価しないのか? 言語以前の自然との無媒介な合一は、歴史的に見て、ジェインズの 言うbicameral mindに更に先行する時期への逆行を意味するのか? 勿論、実際には意識の構造の変化が可逆である保証はなく、 それは偶然も含めた歴史的な径路の辿って現在に到っている。 今日、可逆な径路を辿ることができてとして、それは或る種の 狂気の状態と見做され、それは通常我々の社会がその成員に 要請する、法的な意味合いも含めた「人格」を備えているとは 見做されえないであろう。
個体発生は系統発生を繰り返す、というのは心的な構造についても 言いうるのかも知れない。ラカン的な鏡像段階と、ジェインズの bicameral mindを経て今日の意識構造に到達するまでの歴史の 素描との間に並行性を見出すことはできないのだろうか?
それにしても西欧の思考のある様態において、言語の媒介を否定的に捉えるのは なぜなのか? 乏しき時代、神が隠れた時代、それはbicameral mindにおいては 可能であった神の告げに従った意識なき行動が不可能になって しまったということなのだろうが、それが何故否定的に捉えられるのか?
西欧の思考のある様態においては、ルソー的な自然状態への回帰 への憧憬がある。啓蒙時代には言語の起源についての議論ともに 理想言語の探求が実証を欠いた思弁的な仕方で為されたが、理想言語には 2つの方向性があった。ルソー的な感情表現に結びついた言語の想定と、それに対する代替案としての、コンディヤックの理性の道具としての 合理主義的言語観の2つであり、両者の統合としての ヘルダーの言語観を位置づけることができるだろう。 アドルノ的な自然支配の道具としての立場は寧ろコンディヤック的な見方であり、 ルソーの立場からは、原初的な理想言語から、合理的な言語へといわば 頽落したということになる。そのかわり「理想言語に逆戻りできれば…」 といった、言語自体を否定するのではなくして言語の理想状態を回復 することを通じての調和の回復というのを考えることができるのかも 知れないが。
価値論的な逆転をしてみたらどうなるのか? スティグレールから遥か彼方を見やって、カーツワイルような ポスト・ヒューマン論者、あるいはドイチュの「無限の始まり」に提示 されているような方向性においては、寧ろ進歩を、啓蒙を続けなくてはいけない。 啓蒙を続け、進歩を続けるために、ポパー的な検証可能性を 備えた枠組みが必要になり、想像力・構想力の行使が必要になり、 創造が必要になる。
更には、構想力が自由に働いている無秩序状態から、統一が生じることそのものを 否定的に考える必要がなぜあるのか? 逆に構想力が自由に働いている無秩序状態が継続し、そこから統一が 生じなければ、構想力の行使にはどういう価値があるのか? 無秩序状態自体に価値があるわけではないのではないか? それは狂気、言語の構造の破壊に繋がることはないのか? ドイツロマン派的なメタ主体の無限後退による主体の浮遊化は、実体が伴うか? どのような実践が可能か?その実践は単なる言葉遊び以上のものたりうるか? 結局、構想力の働く余地を残しつつ、だが、カントにおける総合的判断の機能を 阻害してもならないのではないのか?
ありえたかも知れないものとして把握される統一。 観念的想起を通した模倣。実は模倣される対象はかつて 一度も存在したことがなく、経験されたこともなく、ありえたかも知れないものとして把握され、 その限りで美しいとされる、、、
創造は、それ自体は主体の死としての自己超越のプロセス、それによる客体的不滅性の獲得である。 仮構されたものとしての存在との統一の恢復は、そのまま個体の死だ。 言語を捨てない限り一致はないかに見える。言語を透明にすることはできない。 それは私を廃棄することはできないのと同じだ。 一致は私を廃棄することなしにはできない。統一が成就した時、個体的なものは消滅する。
そしてそこは「美」が生まれる場でもあるだろう。「滅びの中の生成」のヘルダーリンによれば、 過ぎ去ろうとしているものが想起の中で美的なものを伴って再現前化されるという。そしてこれは、美的に把握された 「時の逆流」の経験そのものである。可能なものの現実への生成には、主体の過去の脈絡としての世界の没落、 没落するものの感受と想起が伴う。(この点をヘルダーリンは、(時間論的に解釈された) 「滅びの中の生成」で、極めて正確に捉えている。)
そこに感じられる「息吹」の問題。それはかつて実在したことがないとしたら、何に由来するのか?それは単なる幻想なのか? かつて一度も起きた事のないかも知れない、統一の仮構された恢復への誘いとしての不一致の感覚は、 意識の受動性、不随意性の感覚やら、意識にとっては彼方から到来するように思われる、無意識的な活動の 意識への介入によるものだろう。意識とは物語化の装置であり、恢復された一致の展望のための原点として、 己を風景の中に仮構するに過ぎないのだし、ジェインズ的な意識の考古学のレベルでは、一致に向けての 模倣は過去のbicameral mindにおける右半球からの神の声の模倣であるということになる。神不在の 今日の詩人は、不完全な模倣を、ヘルダーリン風に言えば「計算」によって行う他、術がないのだ。
結局それは、しばしばそう思いなされるような、言葉の手前ないし彼方にある、非言語的経験を 掴もうとする試みなどではないが、自分という檻の外に出たいという自由への欲求に帰着するのではないか? 必ずしもbicameral mindへの退行が唯一の経路ではないし、統合失調症のような病理やら、催眠術等の(深層も含めた) 心理の操作、あるいは脳内で分泌される化学物質を人為的投与することで鬱病を治療したり、麻薬により意識の変性 状態を作り出したりすることばかりが可能性な訳でもない。 問題は一致そのものではなく、意識の構造の崩壊・破壊としての狂気、言語の組織としては、 構造を喪失して散乱するカオティックな状態に対して、カオスの縁に身を置くこと、そうした危険に身を曝すことなく 創造はできない、新しい秩序の生成はない、ということ、つまりはシステムは常に動的でなくては準安定状態を保てない ということなのではないのか?結局はベクトルの問題で、無秩序への志向ではないのだ。 秩序への志向だが、それは静的な構造の維持ではありえず、常に動的な不安定な状態で、定常性を維持しつつ、 より高度な秩序を生成することへの志向であるはずだ。
その時、ホワイトヘッドのプロセス哲学における「時の逆流」を、「滅びの中の生成」と結びつけることができるだろう。 それらをネゲントロピー、秩序生成という時間の矢のレベルでの時の逆流という文脈で捉えることも可能だろうし、 更にそうした「時の逆流」を情報論的なレベルで捉えたとき、詩作や作曲といった活動をも、自己再帰的な構造の ある階層における「時の逆流」として考えることができ、「美」というものを、そこでの秩序の性質、その安定性、 出来のよさと関連付けることができることになるだろう。
新しさは主体にとってのそれであると同時に、世界にとってのそれでもあることに注意しよう。 そして結局、どのような秩序を築くかにかかっているのであって、始原の状態、未分化な状態を賞揚することになど意味はないし、 静的で死んだ秩序でも、何もそこからは生じない動的な混沌でもない、自己組織化可能な経路の選択こそが問題なのだ。
だとしたら、啓蒙を否定する必要が本当にあるのだろうか? 否定しなければならないのは、意識が構築するものがドグマとなって、心の創造的な働きを抑圧してしまうこと であって、意識ある存在が、啓蒙の延長線上にて、何かを構築し、宇宙をより豊かなものにするのに与りたいという 欲求とは別なのか?あるいは自己そのものを止揚し、人間の存在様態自体を変革したいとさえ考えることはどうなのか? (私はここでドイチュやカーツワイルのような論者の主張を思い浮かべている。)
その上で詩作とは、音楽とは何か?bicameral mindの時代の神の告げに対するノスタルジー以上の意義はないのか? 恐らくは、美が果たす役割を考えることが、それに対する答を見つける鍵になるのではないか?美は芸術以外の領域においても 意味を持っている。数学者や物理学者、ソフトウェア開発者は自分が構築する抽象的な世界に対して、美的な評価を行うものだ。
詩を通じて、音楽を通じて認識できること、感受できることは一体何だろう。創造と新規性という芸術と科学の共通の基盤の 存在は明白で、科学的な理論の構築は、寧ろ詩作や音楽の作曲に近いとさえ言いうるだろう。 無意識のエクササイズとしての芸術というベイトソンの定義を思い浮かべるべきだろうか? 新しいタイプの美のデザインをする実験領域として、詩作や音楽は、歴史的な経緯からしても、人間の心に対して 直接働きかけることができるし、音楽は直接に右脳に働きかけることによって、詩作は右脳と左脳の両方に同時に働きかけることに よって、脳の創造的な働き方のエクササイズになり、創造的な活動を飛躍的に増大させるためのスプリング・ボードの如きものに なるうるのかも知れない。
一方で、一回性のものの記憶、個体的なものの擁護との関係はどうなるだろうか? かつて詩が、右脳に座する神々の命令であり、bicameral mindの人間はそれに無条件に従って行動したのであるとして、 だが今、伝記的自己意識を備えた人間、自らの有限性を意識するようになった人間にとって、そうした有限性についての詩作や音楽は、 個体の生物学的基盤の上に随伴する存在でしかないが故に、有限の期間しか存続しえない限界を持った意識の自己憐憫なのか? だが意識というのは、結局のところ何らかの基盤の上で、動き続けることで存続するに過ぎない。仮に生物学的基盤から 自由になる日が来ても、「自己」が存続する限りは個体的なものの擁護は意味を持ち続けるのか?
勿論、特異点の手前で生を終えることがほぼ確実な運命である生物としてのヒトの脳内で機能している私の意識にとっての 意味は、自分より過去の意識にとってそうであったのと同じ切実さを持っている以上、己の領分においては改めて問うべき 事柄ではなく、自分にとって切実であるということを事実として受容すれば事足りるのかも知れないし、それをどうにかすることは 或る種のヒュブリス、冒頭、暗にヘルダーリンの詩作の立場を想定して出発点においたときに確認したヒュブリスに過ぎないのだろうが。
少なくとも言えることは、永遠という言葉を無限への漸近という意味合いで捉えることを前提として、詩作とか音楽の創作は、 それ自体が、自分に課せられた有限性を、まさに自己を滅することによって超越し、永遠を希求するものであるということだ。 一回性のものを記憶し、個体的なものを記念するのは、己自身のためでは決してなく、あくまでも詩作や音楽は、 声無き者の代弁であり、他者のために、他者に向けて差し向けられる行為なのだ。それは神無き時代にあって、沈黙する神を 甦らせる詐術であってはならない。最早欺瞞にしか役立たない神話の復権であってはならない。神の不在を証言すること、 自分が出逢った個別的な経験を証言すること、それを他者に向けて記録し、証言することが為すに値することである ということは確かなことであろう。
詩作を問題にすれば言葉が問題になるが、音楽自体を問題にしたら、展望はいささか変わってこないだろうか? bicameral mindの枠組みでいけば、右脳に直接働きかける音楽は、神々の領域に、今なお直接働きかけることができるわけだから。 前に書いた文章で、暗黙の裡に「言葉」を前提にしている「声」に対して「歌の優位」という言い方をしたりしたが。 でも、これだけなら単なる一般論で、「音楽」の中にも「動かしがたさ」の基準というのが あるという、単なる受け手である私にもはっきりと感じ取れることの説明には届かない。音楽については、更に別に 検討の必要があるだろう。
手がかりとして、アルゴリズミック・コンポジションにおける「パラメータのマッピング」を、 例えばヘルダーリンの言う詩人の「計算」とつき合わせてみよう。bicameral mindの崩壊後、詩人は厳密な計算によって詩作すべき なのだとヘルダーリンは主張する。そして、そもそも神不在の乏しい時代の詩作というのは、(bicameral mindの時代の詩作の) 逆シミュレーションだということを言っているようにも思える。方法主義者ヘルダーリン、逆シミュレーションとしての詩作。 一般のヘルダーリンのイメージとは全く異なるけれど、こちらの方が本当のように思える。ヘルダーリンが21世紀に 生きていたら、詩作をコンピュータ・シミュレーションベースで試みたというのは、ありえない話ではないように思う。 方法、計算はそれ自体「一致」を保証するものではないけれど、自己意識を持った存在が「一致」に近づくために必要な基盤を 用意するものであるということは確かなように思える。
音楽が右脳に直接働きかけるというとき、それはまずもってメロディの水準である。 「歌」は内容としての歌詞なしでも成立するし、歌詞のない「歌」のレベルで伝わるものがあり、しかもその水準こそが 感情・情動に直接作用する。「歌」の水準はメッセージの「形式」の水準であり、「腑に落ちる」かどうか、つまり美的価値は、 寧ろその水準のみで論じられる。そしてこれは一方でミズンの「歌うネアンデルタール」、 他方でレヴィ=ストロースの「野生の思考」の水準であり、かつ、ジェインズのbicameral mindの崩壊前の水準でもある。 そしてそれが故に言語的に「説明」するのは困難を伴う。説明は「物語」の「内容」の水準だからだ。
いわゆる「物語」における意味、主題や内容の側は言語の意味の水準であり、それは左脳の領分である。 またそれは言語を基盤として成立している自伝的な自己意識の水準でもある。 自己意識がある以上、それは物語を要求する。物語化して自伝的自我を形成するのが意識の役割だからだ。
ところでしばしば物語の内容が楽園追放のような分離状態の神話となるのはなぜなのか? また音楽が分離状態からの(ヴァーチャルな)回復を目論む儀礼に用いられるのはなぜなのか?
それは一方では意識の自己の状態の自己言及的な記述であり、意識の宿命的な欲求(形而上学的な欲求と言って良い) だからで、なおかつ意識自身にはそれを解決することが原理的にできないからであり、 他方において音楽には、「歌」の水準において、右脳に働きかけることで、分離状態からの回復を可能に する力能が備わっているからではないか? レヴィ=ストロースが「野生の思考」の重要性を主張し、三輪さんが「神に見放されない」ために必要と 感じられるのは、上記のような理由からではないか。
レヴィ=ストロースが『野生の思考』で「ゲーム」について言及しているところがある。そこでは 「ゲームは構造から出来事を作り出す。」(邦訳p.41)と言っている。これは「神話」が「出来事」を 組み合わせることによって構造を浮かび上がらせるのと対照させているわけだ。 一方でレヴィ=ストロースは「ゲームは離接的であり、儀礼と神話は連接的である」とも言う。 ゲームはゲームの遂行によって参加者を(ヴァーチャルに)勝者と敗者に分割するのに対し、儀礼は最初に分割を 設定しておいて、儀礼の遂行によって分割を(ヴァーチャルにせよ)解消することを目指す、と。
『洪水』誌の三輪眞弘特集号の後書きで、編集者である詩人の池田さんが、三輪さんへのインタビューで「ゲーム」に 興味がないかという質問を池田さんがしたところ、三輪さんは少し考えて明確に否定したということがあったのを記録されている。この部分を読んだとき、私には、この池田さんの質問が、インタビュー本文の内容からするとちょっと浮いた、唐突なもののように感じられ(勿論、そうだからこそ、本文には収録しないという判断になった可能性はある)、 池田さんは一体何を思ってあんな質問をしたのだろうと思った反面、確かにそういう質問をしたくなるかもな、 とも思ったのを鮮明に記憶している。 「逆シミュレーション音楽」の中には、一見すると「ゲーム」に見える側面があって、そこだけを取り出すと ゴールデン・ニカの講評が述べていたような危険を感じてしまうのだろう。私自身も「覚書」以来、 何回かそれに近いことを書いてきた。
レヴィ=ストロースは『遠近の回想』で、西欧ではある時期以降、音楽が神話の代わりになったという ことを言っている。神話が音楽と小説に分担されるようになったということも言っている。 素材を組み合わせることによって構造を浮かび上がらせる側面は、いわゆる「絶対音楽」によって受け継がれたのだと。
コンピュータ・シミュレーションで作曲するということは究極的に「パラメータのマッピング」を することに帰着するが、それはいかようにも恣意的にできる一方で、あるいはそれゆえに、その恣意性を 根拠付けるために「物語」が召喚されるという構造があるという消息を上記の展望の中で位置づけようと するならば、凡そ以下のように素描できるだろう。
「アルゴリズミック・コンポジション」は西欧的な絶対音楽の思考のいわば極限で、物語性を排除して 構造を浮かび上がらせることがいわば抽象されたものであり、「動かしがたさ」は、それによって 浮かび上がる構造の豊かさ・美しさと相関する。一方で、物語が排除された状態で、その操作の結果を 実行することは「ゲーム」にもなりえる。それを「儀礼」たらしめるためには「物語」が 必要なのだと思われる。しかもそれは西欧の歴史の神話⇒音楽+小説のプロセスの逆転だから、 物語は、選択されたパラメータによって産出される構造と適合したものである必要がある。 そのとき物語の方は、記憶すべき個別的で偶然の出来事に関わるものになるのではないか。
そしてそこも含めて、全体として「動かしがたさ」が獲られたとき、ようやく「儀礼」が回復できるのではなかろうか。かくして、 音楽の構造が示す一般的で普遍的な秩序の豊かさ・美しさに、人間的な次元がいわば再帰的な仕方で畳み込まれるのではないか。
更に言語との対比で音楽を捉えた場合に、音楽のアナログ性が持つ意味にも触れておこう。 音のトーンと言語を対比させたとき、アナログ/デジタルの区分では音楽は前者、言語は後者ということになる。 言語がパターン分類と分類されたパターンのルールに従った生成のメカニズムであり、世界を分節し、抽象化することで 一般的なもの普遍的なものへの通路を開くのに対して、音楽の持つアナログな部分は個別性に留まり、デジタル的なものを 通して可能である普遍的なものへの到達は、音楽にとっては無縁であるかのように見える。音のトーンの都度異なる 反復不可能な微妙なニュアンスは普遍的なものとどのようにかかわりうるのか、それは登ったら捨てられる梯子の 如きものに過ぎないのか?
直接の答えになっていないかも知れないが、端的に言えば、音楽が我々と関わる仕方が身体的であることが鍵に なっているのではないだろうか。そしてそれゆえに音楽が、まさに三輪さんの言う、 「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための 儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」 であるためには、常に個別的・具体的なものでなくてはならないことに関連しているのだと思われる。
音楽が右脳に直接働きかけることができるということは、自伝的自己を作り上げる自己意識に対してのみならず、 ダマシオの言うところの「ソマティック」な原自己、中核自己の水準に直接働きかけることができるということ、 言い換えれば感情や情動の領域に直接働きかけるということである。 人間の脳には単一の「音楽センター」が存在せず、音楽を聴くには脳全体に散在するたくさんのネットワークが 関与しているだけでなく、まさに全身で聴く、内臓や筋肉の緊張、呼吸、脈拍といったあらゆるものが音楽に反応する。 そして情動を惹き起こす。それは意識には制御できない不随意的な反応なのである。つまり音楽は意識の有無に 関係のない自律システムであって、それゆえ夢の中でも音楽は抑圧による変形・加工を受けにくい。 それは言語的な意味から遠いからなのだ。
音楽の美というのは、言語的な意味・内容とは異なって、分節されておらず、都度異なる反復不可能な微妙な ニュアンスによって惹き起こされる身体的な反応、常に個別的で無目的、無関心だけれども、 でも合目的で普遍性を備えたクオリアがもたらす感情に関わるのである。莫大な組合せ論的可能性の中から、 あるパラメータを選択したとき、そのときにのみ「腑に落ちる」、そうした選択を行うのが作曲の営みである として(実はそれは、アルゴリズミック・コンポジションに限らず、いわばより一般的な作曲行為の 或る種の極限、エッセンスであるという見方ができるのだが)、「腑に落ちる」という言い方は、 音楽の美が本質的にソマティックであるという消息を正確に伝えている。
『判断力批判』のカントは、単なる「感覚の遊び」にすぎないとされる音楽について、 「すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占める」と 評価する。(逆が言語芸術である詩作である。裏返せば、音楽は外からいかようにも言語的意味を押し付けうるもので、 物語の恣意性の危険は非常に大きいということも物語っている。) しかしこのカントの評価は、基準を逆転させることもできる。それは言語を獲得し、象徴を操作できるようになった 人間のみならず、ネアンデルタール人、もしかしたら他の種とすら基盤を共有している可能性がある。 だとすると、ここにはデジタル化とは別の普遍性の次元が開けているといえるのではないか?
ところで、自伝的自己に対応する延長意識が行うのは、本当は離散的なものを補完して滑らかにして認識するという 働きで、人間の世界がアナログに思えるのは、「意識」がそのように世界を見ているからだ。 けれども良く知られているように、人間の知覚は本来デジタルなものである。 ドイチュが『無限の始まり』で持ち出す例は印象的で、ずばり言語/声のトーンの対比を持ち出すのだが、 知覚器官自体は実はデジタルに機能していて、意識が受け取るときに連続的に補間が行われている。
時間意識もそうで、実は現在は巾を持っているのに、数直線で表象されるときには巾を持たない点である瞬間が 仮構される。ホワイトヘッドの延長的抽象化の理論によれば、離散的な時間の原子の継起から連続的時間が 抽象される。また、リベットの有名な実験によれば、現在の巾は0.5秒程度で、実際にはそれ以上の分割が行える というのは錯覚に過ぎない。つまり意識は常に既に時間的・空間的に連続補間されたものを見させられている わけで、それゆえ逆に、意識の裏をかく集団的なものへの同調、恣意的な言語的意味との重ね合わせによる馴化と いった音楽の持つ催眠性(意識が眠っている間も音楽は働きうる)を利用される危険もあるわけである。
美的経験は常に個別的だが、その形式は普遍化しうる。音楽の実現の現象面のみを見ずに、音楽のシステム的な側面に注目すれば、 音楽もまたデジタル的な側面を備えていることがわかる。アナログなものをパターン化し、離散的な構造を与えていく こともできる。例えばスケールというのは、音程を量子化し、離散化するシステムである。 西欧音楽のように、生成されるピッチの正確さ、和声としての複数の音程の振動数の比例関係に拘るものもあるが、 実現される音程の正確さよりも、別の次元に重きが置かれるシステムもあるだろう。 相変わらずそれらは言語的な意味とか内容からは遠いものだが、形式的な構造としては言語の操作と同型の ものを声のトーン、旋律、和声進行などを使って行うことができる。依然としてそれは情動を惹き起こすが、 言ってみれば、人間の無意識のプロセスを構造化するのである。 であるとすれば、芸術が無意識のエクササイズであるというベイトソンの定義は、こういう意味での音楽、言語のように構造化された 音楽にこそ最も良く当て嵌まりまるのかも知れない。音楽的な美は、いわば意識の背後から、人間の在り方を調律し、リズムを整えるのだ。
そうしたパターンが「作品」として定着されたとき、それは反復可能となり、「デジタル化」されると考えることができるだろう。 コミュニケーションを考えれば、「作品」とは上演の個別性に対する量子化であり、逆にメッセージ伝達における誤差を一定の 範囲に抑える働きをすることになるからだ。アナログなものは個別の身体に生じる私的な出来事であり、それはデジタル化すること なしには保存・複製・転送できないのである。
ここではアナログなものの持つ、反復不可能で再現不能な一回性は、普遍性に近づくためにデジタル化されることに よって、断念されているという見方もできるだろう。個別的なものは自己を滅ぼすことによって普遍性を獲得する という構造がここにも見られる。一方で、何らかのパターンなしに美というものがありえない のだとしたら、アナログなものの持つ、反復不可能で再現不能な一回性自体は如何なる意味合いでも美的なものではないだろう。 美的なものは、それがパターンとして記憶され、反復されることによって、初めて美的な価値を獲得する というように考えるべきなのかも知れない。
同じように一回性の儀礼というのはありえない。儀礼は、最初の一回を、唯一の出来事を反復して 想起することで「記念」する。しかもその反復は、都度、個別的で、かつ異なった一回性の新しい出来事でもあり、 都度新たにソマティックな仕方で儀礼の参加者に働きかけることによって、普遍的な価値に漸近していくのではなかろうか。
ある時期に私は、自分が普段眺めていて当然と思っている内面的・抽象的展望は、ほとんどの人間にとっては見えないし、 存在すらしていないこと、しかもそれは書くことで自分の外側に記録しなければ、何も無かったのと一緒であることに気付いた。 自分が無くなるのはともかく、自分が遭遇した価値あるものが無くなることが 絶え難いと思ったとき、それを価値として永続化させるためには、それを記録するしかない。 しかも書くこと自体が、それを自分の主観的な印象に留めず、他者に伝達可能な価値として定着 させることに他ならないことに思い当たったのである。
デリダの言うように、唯一の出来事を、唯一性を断念して反復して想起することで「記念」できるという構造がある。 個別の文脈から切り離し、記録し、複製し、壜につめて流すこと、それは「物語る」ことそのものだ。 そして物語ることは、この意味合いでは、レヴィ=ストロースが言うところの「野生の思考」に近い営みだ。 それは唯一の、偶然の出来事を記憶に留めることであると同時に、それを必然的・不変の構造に統合することでもある。 更に言えば、レヴィ=ストロースが『野生の思考』で指摘する、神話的思考が出来事を用いて構造を作り出すときに生じる 美的感動と、ヘルダーリンが「滅びの中の生成」で言う、過ぎ去って行くものに宿る美は実は同じもので、同じことを 別の仕方で語っていると考えられる。それはプロセス哲学的には、「創造」の過程を「時の逆流」として記述することに 繋がるし、自己組織化的な秩序生成がエントロピーを減少させ、熱力学的な時間の矢を逆転させるという描像とも重なる。
多分私は、同じところを堂々巡りしていて、より適切な説明を探しているだけなのだろう。 説明とは物語の一種だが、やはり(ドイチュの言う)「動かしがたさ」という基準を間違いなく持っている。 そして、事後的に結果を評価することはできても、なぜそれを選んだか、なぜそちらに進んだかを説明することはできない、 それは意識が与り知ることのできる領分ではないのではないかと思う。(それは別に芸術家や科学者だけにおきることではなく、 コンピュータを用いた自動スケジューリングのようなエンジニアリングの場面でも、しばしば経験することだ。)
宇宙を一個の情報処理機械とみなし、世界の経過が情報処理プロセスであるとしたら、詩人や作曲家、科学者やエンジニアの営みは シミュレーションを行うことに他ならない。シミュレーションされる対象自体が情報処理プロセスなのであれば、シミュレーションは 寧ろ自己同型写像の一種であり、巨大なオートマトンの局所における自己再帰的な発展と 見做すことができるのではないか?
ところで上記のような考え方は、以下のようなマイケル・ ポランニーの『個人的知識』の末尾の言葉を読み直す 方向付けを与えるものに思えるし、更にそれは、ドイッチュが 『無限の始まり』で述べていることと共鳴しあうようだ。 そしてこの水準では、科学者とエンジニア、詩人と作曲家に区別はないように見える。
結果として時間的存在である意識の自体の有限性の自覚と、無限への志向の両極の間に張られた空間の中に、 詩作や音楽やプログラムを作ることを位置づけるという課題に対しては、未だ見通しがようやく獲られたといった レベルに過ぎないが、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」のそうした展望の中での位置の確認をしていくための 通路を確保すべく、以上の点を書き留めておくことにしたい。
(2014.4.29-5.12, 6.28公開, 29修正, 7.7訂正, 2024.8.11 noteにて公開)
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