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羊飼いと夜色の羊【短編小説・フリー朗読台本】

 ある日のことでした。太陽が高くに昇った青空には、白い雲がいくつか。風が吹けば草原が黄緑色に輝いて波打つ昼頃。散らばった羊達が、のんびりと過ごしていた時でした。

 柵に腰かける天使を、羊飼いの少年は見つけました。白い翼を畳んで、その姿はどこか小鳥が留まっているかのようにも見えます。しかし天使は歌うこともなく、不機嫌そうに頬を膨らませていたのです。
 天使がじいと睨むのは、雲によく似た羊達でした。

「一体どうしたの?」

 羊飼いの少年が尋ねれば、天使は深く溜息を吐いて、瞳だけを彼に向けました。

「今度、天使を辞めさせられるんだ。今の時代、天使ってあんまり必要じゃないみたいでね」
「君は天使を辞めさせられたら、何になるの?」
「さあ……『天使じゃなくなる』ってことは確か。でも僕は天使だ。天使じゃなくなったら、僕は消えるのかもしれない」

 天使は素足をぱたぱたさせ、白い翼をかすかに広げました。風に吹かれ、花弁を思わせるその翼は、近いうち、まさに花のように儚く散ると言うのです。

「それは……困るね」

 羊飼いの少年は眉を寄せました。けれども、天使の悩みはそこではないようです。

「困っているのはそこじゃないんだ。天使じゃなくなって消えるのなら、その前に天使じゃない何かになればいいんだから」
「ということは、何かになるつもりなの?」
「悪魔になる予定。もう地獄の大悪魔と話をしてきた」

 ということは、天使のこの白い翼は、真っ黒に染まるのでしょうか。それとも蝙蝠のものになるのでしょうか。どちらにしても、羊飼いの少年は「へえ!」と声を上げました。

「天使から悪魔なんて、全く違うから苦労するかもしれないけど、面白そうだね」
「君は悪魔を怖がらないんだなぁ」

 天使は決して笑いませんでしたが、ふわりと翼を羽ばたかせれば宙に浮きました。そしてなおも不機嫌そうに、腕を組みます。

「まあそれはさておき……僕は羊の悪魔になろうって思ったんだ」

 天使は先の草原にいる羊達を、顎で指します。

「ほら、羊ってかわいいでしょ。白くてふわふわで……」

 でも、と、よりその瞳が細くなり、翼がばっと大きく広がります。

「羊の悪魔になったのなら……黒い羊になるっていうんだ! 僕は白くてふわふわの羊になりたかったのに!」

 天使はそのまま、すとんと柵の上に座り込んでしまいました。深く溜息を吐けば、翼を畳みます。

「でも僕はやっぱり羊の悪魔がいい……けど黒にしかなれない……それで悩んでるんだ」

 太陽に、わずかに雲がかかりました。それでも天使の頭上の金の輪は輝きを失わず、風が優しく吹けば、草原は波打ちます。めえめえという声が、二人の元に運ばれてきました。子羊達の鈴の音は、まるで笑っているかのように聞こえます。

 羊飼いの少年は、うーんと少し考えて、天使の横に並びました。

「黒い羊も悪くないと思うよ、珍しいかもしれないけど、ないものではないし」
「わかってないなぁ君は。僕は『白い』羊がいいんだ。あの雲のような、ね」

 天使の細い指が、綿菓子のような雲を指さします。青空に映える真白は、風に吹かれるまま漂っています。
 天使の指につられるようにして、羊飼いの少年も空を見上げます。いまは透き通った青色――時が経てば、橙色に染まり、黒色に染まる天井。そこで思いました。

「黒は夜の色だよ。それじゃあ、だめ?」

 天使は虚をつかれたかのように目を丸くしました。それからしばらくは、黙って空を見上げていました。風が白い雲を流していきます。現れるのは、常に色を変えていく空です。いまの青色は、数秒前の青色とは違うのです。夕方になれば燃えるような橙色に。夜になれば深い黒色に――そして朝が来ればまた燃えて青色へと変わる空です。

「……夜も悪くないなぁ」

 やがて天使は、宙に仰向けに寝転べば、自分の頭にあった輪に手を伸ばしました。

「それじゃあ、僕は黒い羊になってみる。でも、ただの黒い羊じゃないよ。金の角を持つ黒い羊さ……この輪っかを、角に変えてもらうよ」

 そうしたら、と、自慢げに微笑みます。

「黒い毛は夜。金の角は……まるでお月様みたいになるでしょ? 僕は夜になる。月が二つある夜になるんだ」

* * *

 数日後、羊飼いの少年が世話をする羊の群れに、真っ黒な羊が現れました。

 その黒色は深く、しかし冷たく怪しい影ではなく、穏やかな夜を思わせました。そして頭にある一対の角は金色で、まるで月が二つあるようです。

 昨日まではいなかった羊です。どこから来たのか、本当に羊なのか……普通であれば考えたかもしれませんが、羊飼いの少年は特に何も考えず、他の羊と同じように世話をしました。他の羊も、特に気にしてはいない様子です。

 黒い毛に金の角を持つ羊は大人しく、しかし時々羊飼いの少年の服を噛んで遊ぶような、無邪気な羊でした。羊飼いの少年がその羊の毛で寝具を作ったところ、ぐっすり眠れる寝具だ、と話題になりました。人々は言いました――夜色の羊。だからぐっすり眠れるのだ、と。

 ただ、心地良さ過ぎて起きられない人がいたり、起きたくないと言い出す人がいたりしました。
 そのために、一部の人からは「怠け者を生み出す悪魔の羊」なんて呼ばれましたが、たいていの人は、心地良い夜を提供してくれる「夜色の天使の羊」と呼びました。黒い毛ですが、寝具はまさに天使の羽で作ったかのような心地良さがありましたから。

「本当に悪魔で、天使なんだけどなぁ」

 黒い羊を撫でながら、羊飼いの少年は言います。

「天使を辞めたのに天使って言われるのはちょっとなぁ……」

 草を食んでいた羊が顔を上げました。

「でも『夜色』っていうのはいいね、気に入ったよ……ただ、僕、羊になって、気付いたことがあるんだ」
「何に気付いたの?」
「僕、白い羊がいいとか、黒い羊は嫌だとか、悩んでたでしょ。でも実際羊になったら、自分の身体をじっくり見る機会ってそんなになくてね……つまり大したことない悩みだったんだ」

【羊飼いと夜色の羊 終】


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