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人魚の鱗【後編】

『人魚の鱗』【前編】はこちら


 エジリオ海は思った以上に遠かった。

 最果てであるはずの駅で列車を降りた先、歩いて進むこともあり、乗合馬車を使うこともあり、夜になれば安い宿を借りる。持っている金は少なく、しかし目的地に着いた時にほぼ尽きたのだから、ちょうどよかった、と言っていいだろう。

 上り坂を進んで、ようやく海が見えてきた。きらきらと輝くような海ではなかった。青色の泥水を思わせた。漁村も見えるものの、寂れた様子がここまで感じられる。
 しかし穏やかな場所に違いなかった。

「ここにはもう人魚はいないよ、あんたも人魚を見に来たんだろ?」

 海に向かう途中、漁村の漁師に言われた。俺は頭を横に振る。

「海を、見に来たんだ」
「そうか。桟橋はぼろいから気をつけろよ。もし海に落ちたのなら気をつけろ、この海には、恐ろしいほど深い穴があるんだ」

 適当に進んでようやく浜辺にたどり着く。波の音だけが眠りを誘うように聞こえていた。人の姿も何もない。

 俺はあの小瓶を取り出して、空と海に透かして見る。重たい色をした海に対して、空も重々しく曇っていた。それでも鱗はまるでシャボン玉みたいに輝いて、小瓶の中で揺れていた。

 固いコルクを抜く。これで、鱗は瓶の外に出られるだろう。
 俺は果たしてこれが本当に人魚の鱗なのか、そうだったとしても海に還せば本当に戻るのか、そんなことを疑うこともなく、あっさりと小瓶を海に放り投げた。

 ぽちゃん、と音が聞こえた。さざ波にすぐにその音は消える。

 何も起きなかった。
 しばらく待っても、何も起きなかった。

 波の音に、いよいよ俺は強い眠気を覚え始める。俺は再び、どうしたらいいのかわからなくなった。やることはやったのだ。ここから先は、どうしたらいいのだろうか。

 仕方なく、ふらふらと踵を返そうとした時に。

 笑い声が聞こえたのだ。夢の中で何回も聞いた、あの笑い声が。
 とっさに振り返る。海は相変わらず濁って見えた。
 しかしその中に、あの輝きが見えた。輝きは魚の下半身の形をしていて、海上でゆらりと揺れて海の中へ消えていく。輝きの残像が、確かにそこにあった。

 気付けば俺は、海に歩き出していた。靴が海水で濡れる。ズボンも濡れて重くなる。それでも進んで腰まで海に入って、歩くのが難しくなれば泳いで進む。

 海は思ったよりも冷たく、豊かでも美しくもなかった。ひどく濁って何も見えない。生き物の気配も感じられない。

 人魚の輝きはあっという間に消えてしまった。一度俺は海上に頭を出してみる。すると、まるで手を振るかのように、先の海上で尾鰭が揺れていた。

 俺は再び泳ぎ出した。何度も人魚を見失ったが、その度に人魚はまるで手招くように尾鰭を見せてくれた。

 ところがついに、完全に見失ってしまった。大分泳いだところだった。どこを見てもあの輝きはない。海の上にも、中にも。

 代わりに、海の中で、闇が口を開けていた。
 大穴。闇が深くまで続いている。
 夢で見たものと、全く同じものだ。

 人魚を見失って不安を覚えていたものの、どこまでも続く闇を見て俺は安堵する。

 ああ、ここだ。
 ここに行けば、俺の旅は終わるのだ。
 ここは還る場所なのだから。

 俺は闇へと泳ぎだした。
 俺はきっと、死に損なったのだ。だから。

 沈んでいく。沈んでいく。そこは優しくも温かくもないけれども。
 しかしどんなに泳いでも、どんなに進んでも、どんなに手を伸ばしても。
 俺は闇に、触れることができなかった。

 血を吐くように吐き出したのは空気だった。冷たい海水が、身体の中に流れ込んでくる。
 とたんに俺は苦しくなった。否、苦しさを思い出した。

 自然と手を伸ばしたのは、闇ではなく光。どうしてだろうか。
 だがもう間に合わない。

 ――美しい輝きが、どこからともなく、流れ星のように駆けてきた。俺の身体を抱きしめれば、光の方へと泳いでいく。

 人魚は意外にも、温もりを持っていた。


* * *


 気付けば俺は、浜辺で海水を吐いていた。肺も喉も、身体も頭も全部が痛い。それでも咳き込んで、海水を吐き出して、酸素を取り入れる。
 濡れた服は肌に張りつくだけではなく、重さもあって、気持ちが悪かった。

 俺が落ち着いてきたところで、背後で「きしきし」という声が聞こえた。
 それは笑い声だった。奇妙な笑い声で、まるで動物の鳴き声にも思えた。しかし、よく聞きなれた声でもあった。

 振り返れば、岩場に魚の下半身を持つ人間に似た何かがいて、こちらを見ていた。俺がよく見る間もなく、彼女はさっと海に潜っていなくなってしまった。

 そこでようやく、俺は理解する。
 俺はあいつに、からかわれていたのだ。

 まだそこに行くべきではない、と。
 あるいは、あそこはそんな場所ではない、と。

 俺が手を伸ばしたのは光で、あんなにも苦しかったじゃないか。
 あそこで待っている人間も、優しさもなかったじゃないか。

 立ち上がり、深呼吸をして海を見据える。
 俺は呼吸をしていた。俺は生きていた。

 海は濁っていて、空も重々しく曇ったままだった。
 それでも俺は世界に立って、一人、生きていた。
 あいつはそれを、思い出させてくれたのだ。


* * *


「釣りか? あそこじゃなかなか釣れないっていうのに、よく行くなぁ……」

 海に向かう道中、漁村に住まわせてくれた男に言われた。

「そういえば、最近この海にまた人魚が出るようになったらしいんだ。あっ、お前は知らないかな、この海には以前、人魚がいてな。そいつは貴族に捕まったんだけど……とにかく、また人魚が出るようになったんだ。捕まえたらかなりの額で貴族に売れるぞ!」

 ひとまず俺は笑顔を作っておいた。
 浜辺にたどり着くと、いつも通り人の姿はなかった。ここは魚がなかなかいない場所のため、皆別の浜辺に行くのだ。しかし俺は、小舟を出して、海上で糸を垂らす。

 やはり、思うようにひっかからなかった。釣れる時は釣れるのだが。
 ぼんやりとしていると、大きな波もないのに、不意に小舟が傾いた。

 きしゃあ、と声がする。あいつだ。

「よお」

 俺が振り返れば、小舟の縁に、海から少女が身を乗り出していた。とはいっても人間ではない、淡い青色や桃色、黄色に輝く魚の下半身を持つ人魚である。白い肌の身体には鰭のようなものがいくつかある。指には長い爪。髪は長く黒く艶やかだが、顔を見れば頬に鰓孔があった。巨大な瞳は七色だ。人間の目とはまた違う。

 いつもこいつを見て思うのだが、貴族達はこんな奴の肉を食おうなんて、よく思ったものである。
 人魚はきしゃきしゃと声を発しながら、尾鰭で海を叩く。

「釣れねぇよ。お前の仕業か?」

 返せば人魚はまたきしゃきしゃと声を上げて笑った。どうやらこいつは、人間の言葉を発せはしないものの、理解はできるらしい。

 と、人魚はきしゃー、と鳴いて、小舟に乗り込むとしてくる。古い小舟は大きく揺れる。

「おい、それで一昨日ひっくり返したのはどこのどいつだ」

 嗜めれば人魚は小舟に乗り込むのを諦めた。
 俺は溜息を吐いて、釣りを続ける。

「このまま釣れなきゃ飯はなしだ……飢え死にだな」

 ただのぼやきだったものの、人魚は首を傾げれば、海の中へ潜っていってしまった。

 間もなくして、海から空へ、何かが跳ね上がる。ぼすん、と小舟に落ちる。
 魚だった。一匹だけではない、次々に跳ね上げられ、小舟に落ちてくる。

「そんなに心配するなよ、そう簡単に死ぬもんじゃないんだから」

 これでは多すぎる。魚がまだ生きているのを確認して、数匹を海に戻す。

 人魚はと言えば、片手で魚を持って「きしゃ?」と首を傾げていた。

 結局その日は釣れず、人魚が打ち上げた魚を持って帰ることにした。
 浜辺に戻って振り返れば、尾鰭が海上で揺れていた。俺も軽く手を振る。

 俺はもう迷うことなく、まっすぐに帰っていった。


【人魚の鱗 終】


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