見出し画像


たぶん、中華圏ではいま最も有名な踏切を横目に、高校生の自分は学校までの、今ならそれこそ手すりが欲しくなる坂道を登り降りして通っていた。

その頃の県立高校は各学年12クラス、500人くらいの生徒がいたので、隣の高校も含めると総生徒数は1500×2くらいだろうか。
この区間の輸送需要としては総生徒の2/3くらいはその電車に乗ってきていたはずで、小さな4両連結の電車に学生服が男女別なく、掴み取り放題のお菓子のビニール袋みたいに詰め込まれていた。

特に、2校とも朝のホームルームに間に合うギリラインの藤沢駅午前8時12分発のそれは、それまでの各駅でドアが開くたびに生徒が弾けて溢れるレベルの詰まり具合で、一般の皆さんからしたら決して乗ることの出来ぬ地獄列車であっただろう。

そして、途中駅から乗っていくかつての自分にとっても、その黒い肉壁に毎日挑む勇気も気力もなく、さりとてすこし早く行くという選択も続かずに、徐々に次の電車で自主オフピーク通学を心掛けるようになっていった。

面白いことに、その24分発の電車にも、ギリギリ1限には間に合うから授業の出席日数には影響がないことを把握した、同じように快適な通学を心がける皆さんが多く乗っていらっしゃった。
その合理的思考というか要領の良さと、そのために規則に盲従しない生徒があんなにいたことが、あの学校の自由な学風そのものなんだと今になれば思う。自分で自分の補助線を引ける能力を磨く場所、みたいな話ですね。

そして、遅刻確定フラグが立っているその電車は、誰かと接触しないレベルの混み具合だし、何より楽な姿勢でちゃんと外が見えるのが好きだった。


なんせ、乗り込んで直ぐにちょっと広い川を眺めまわすようにゆっくりと渡り、カンカンと鳴るメカニカルな電鈴の音を聞き、弱そうにみえる小さな電車が路上を最強の生物かのように練り走り(カーブを曲がっていきなり激突という場面に遭遇したこともあるが、こちらはほぼ無傷、運転手は速攻でその車を下げさせて仕事に戻ったものであった)、軒先スレスレから他人の朝ごはんをチラ見し、

そして左に曲がるといきなり、遮るものなく、海が見える。


電車はそこで時速50kmくらいまで吊掛モーターを全開に唸らせ(くるりの歌にそういうのありますね)、遅れ気味の鋼と学生の塊を1秒でも早く届けるべく格闘し、海際のプラットホームに全力ブレーキで酷い金切り音を立てながら滑り込み、優しく止まるために緩めたそれが、震えるような音をさいごにひとつ発して停止する。

毎朝がちょっとしたエンタメである。

それを満喫してホームに降り、右後方を振り返ると江ノ島が見えた。
まるで左向きの鯨のようなそれは、日がな毎日見ていたものなので、そこまで意識はしていなかったのだろうけど、この会社の原型ををつくるときに、なんかシンボルが必要だな、として、20年前からイラストレーターが使えた今の嫁さんに原案として渡したのはその鯨だった。
おかげでこのロゴマーク、いまも時折、お客様からすごく可愛いと褒められるので、お堅めなこの仕事をやる上でアイスブレイク的にとても役に立っている。有難う。


そして、当時から灯台の形は変わり、ヨットハーバーの三角のクラブハウスの屋根もふわふわに新しくはなったけど、いまでもあちら側から見る江ノ島はさして以前と変わらず、134号線を鎌倉側から帰る夕刻などは富士山の影の横のそれを、見飽きず眺めてしまうのである。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?