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怒りの成仏について考える:映画『空白』を見て

「怒り」との向き合い方を考える

『空白』
2021年公開
監督/脚本:吉田恵輔
キャスト:古田新太 松坂桃李 田畑智子 寺島しのぶ
ーあらすじ(filmarks引用)ー 
全てのはじまりは、よくあるティーンの万引き未遂事件。スーパーの化粧品売り場で万引き現場を店主に見られ逃走した女子中学生、彼女は国道に出た途端、乗用車とトラックに轢かれ死亡してしまった。 女子中学生の父親は「娘が万引きをするわけがない」と信じ、疑念をエスカレートさせ、事故に関わった人々を追い詰める。一方、事故のきっかけを作ったスーパーの店主、車ではねた女性ドライバーは、父親の圧力にも増して、加熱するワイドショー報道によって、混乱と自己否定に追い込まれていく。 真相はどこにあるのかー?少女の母親、学校の担任や父親の職場も巻き込んで、この事件に関わる人々の疑念を増幅させ、事態は思いもよらない結末へと展開することにー。

蓄積された感情が怒りに変わる

登場人物はそれぞれ多種多様な感情を蓄積させている。それがある事件をきっかけに感情の蓄積が上限を超え「怒り」に姿を変える。
「怒り」への移行はきっかけとなる出来事が必要なのだが、「怒り」からの離脱はきっかけの解決だけでは済まないのが私達の複雑なところなのだと気付かされる。

鍛錬と過負荷

感情を即座に「怒り」に変え発散することは道徳的に不適切だと私達は理解している。出来るだけ自身で解決法を見出し、行動し、乗り越えようとする。なぜなら自身を律し、より善い人間になるための鍛錬を欠かしてはいけないからだ。

同時に人間の感情は自分以外の人間との関わり合いの中で生まれるコントロールの範疇を超えた産物でもある。このように時に自身ではコントロール出来ない過負荷がかかることがある。

しかし、このコントロール不能な負荷を乗り越える術は相変わらず精神力鍛錬がベースとしてあるのが道徳上の事実なのである。

鍛錬は孤独なものである

自家発電か、もしくは周りからの影響なのかは別として感情は自分のものとして向き合わなくてはいけない。
「自分に問う」プロセスを続けることで人はいつしか自分で解決することに囚われ「孤独」に陥ってしまう。

孤独が怒りを呼ぶ

「孤独」から脱却したいと思った時にようやく私達は声を出し始める。しかし「鍛錬」と「孤独」はセットと捉えている手前「孤独なんです」と言うことは「鍛錬」を拒否することになり、理性的に言いづらい場面が多々ある。
そこで人は感情を「怒り」に変換し、理性を置き去りにすることで「孤独」と「鍛錬」から解放されようとする。

怒りの表現方法は人それぞれ

本作を見ていると「怒り」という表現方法は多種多様であることがわかる。
登場人物はあらゆる方法で「怒り」を表現する。
非行に走ったり、謝罪をしたり、自殺をしたり、怒鳴ったり、自身の正しさを押し付けたり表現の様は人それぞれだ。

怒りを共有することは難しい

冒頭で書いた通り、「怒り」からの離脱はきっかけの解決だけでは済まないのだ。「怒り」を鎮めるためには蓄積された感情の成仏が必要なのである。しかし「怒り」とは孤独な感情の蓄積である為一度で全て成仏するほどシンプルではない。

感情を丁寧にカテゴライズしてそれぞれを別々の引き出しに溜められるのなら、引出しごとの解決が可能なのかもしれない。しかし私達はランダムに起きる出来事を前に整理整頓が追いつかなくなり、ゴミ屋敷のように乱雑に積み重ねる。その結果蓄積された感情は複雑に混ざり、決定的な解決の手立てが見つけづらくなるのである。

私達は怒ると人は「なぜ?」と聞く。しかし複雑に混ざった感情を端的に言語化することなど出来る訳もなく、間違いなく存在する感情は共有出来ないまま置き去りになる。

怒りの虚しさ

孤独をテーマにした「Dear Evan Hansen」というミュージカル作品の「Waving Through A Window」という曲に以下の様な歌詞がある。

間違いなく木から落ち、怪我をしたのにも関わらず、それを共有する人がいなかったら彼は木から落ちていないことになるのではないか?と出来事は共有を通して初めて事実として認められるという事を歌っている。

「怒り」も同様に、混ざりあった感情は解読不能になり、共有が出来なかった時、私達の「怒り」は存在価値自体が曖昧になる。結果「自分の勘違いなのでは?」とすら考えてしまう。その消えゆく「怒り」の存在価値を自他に証明する為に人は怒り続けるのではないか。「説明出来ないけど、ここにあるんだよ!」と叫び続ける虚しい活動になってしまうのである。

怒りのその先

残念ながら作中で本当の意味で「怒り」から救われる人はいない。
しかし自分ですら存在価値を疑っていた「怒り」の欠片が些細な出来事を通して誰かと繋がった時に救われる瞬間がある。

生きている限り感情は蓄積する。これは生きている証と言えるだろう。
それは時に「怒り」に姿を変える。

私達は「怒り」の解決を求めているのではなく、「怒り」の成仏を求めている。そして孤独でないことを知ろうとする。その鍵は「怒り」の存在価値を生きている証として認め合う事なのかもしれない。


-YOHUKASHI BLOGについて-
1989年東京生まれ。
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音楽制作(Youtube)/イラスト(Instagram)/ブログ等をやっています。
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