赤い紫陽花【奇談】
赤い紫陽花もあるのだ、と、相川は少なからず衝撃を受けた。
六月の始め。
吉祥寺から渋谷に向かう通勤電車でのことであった。
人の詰め込まれた車内には、梅雨特有のじっとりとした空気が漂っている。傘が当たってしまったのだろうか、それともただ苛立っていたのだろうか。隣の若い女性がこちらを一瞥し、舌打ちをした。
酷く憂鬱な気分であった。寝不足のせいもあるのかもしれない。頭の中にもやりとした膜が張っているかのようである。その鬱屈さを少しでも追いやろうと、相川は、窓の外に視線を向けたのである。
鉛色の雲は低く垂れ込んでいた。その重さに耐えきれぬように、雨がしとどに降っている。線路沿いに植えられた紫陽花の列が、身を震わせるようにして、藍の四ひらを濡らしていた。
電車が動く。紫陽花が、まるで川のように、右から左へと流れていく。
その青の流れの中に、相川は、赤い色を、見た。
一瞬のことであった。
こんもりとした紫陽花の、その緑と藍に埋もれるようにして、目にも鮮やかな真紅であった。
***
「赤い紫陽花なんて、あるんだな」
相川の言葉に、吉田は怪訝そうに首を捻った。
昼休みである。
吉田は机の上に愛妻弁当を広げているところであった。
鮮やかな黄色の卵焼きに、アスパラガスのベーコン巻き。プチトマトは中を繰り抜いてあり、ポテトサラダが詰められている。そのトマトの赤を見て、相川はふと、今朝のことを思い出したのである。
「見間違いじゃないですか?」
そう述べた吉田に、相川は首を振った。
「いや、確かに見たんだ。そのトマトみたいな、真っ赤なやつだ」
「ピンクとかならよく見ますけど。……真っ赤? 紫陽花で?」
「ああ」
頷きながら、相川は、お湯を入れたカップ麺のふたを慎重に開け、後入れスープの封を切った。飛び跳ねた液体が手にかかり、思わず眉を顰める。
「じゃ、やっぱり見間違いですよ」
吉田はそう言いながら、すかさずポケットからティッシュペーパーを取り出し、相川に差し出した。
「相川さん、働きすぎなんですよ。昨日も終電まで残業してたんでしょ」
心配そうに眉を寄せる吉田に気づかれぬよう、相川はそっと息を吐き、ティッシュペーパーを受け取った。
手を拭いながら、ぼんやりと考える。
確かに、根を詰めすぎているのかもしれない。
仕事が忙しいのは嘘ではない。しかし、そこまで差し迫った物がないのもまた事実である。
「……もう、忘れた方がいいですよ」
唐突な吉田の言葉に、相川は瞠目した。
「気持ちは分かりますけど、ぶっ倒れちゃいますよ。少し休まないと」
吉田は、まっすぐこちらを見ている。
気遣わしげな声であった。そのことにありがたさと情けなさを感じ、相川は目を逸らした。
「俺は、大丈夫だよ」
ティッシュペーパーを丸めて、屑籠に放り投げる。酷くむしゃくしゃした気分であった。
相川には、恋人がいたのである。
渡瀬、という、会社の同期だ。彼女は美人で、頭も良く、性格は少しキツめであったが、その欠点を覆い隠すほどの愛嬌を持ち合わせていた。
一目惚れだったのだ。新卒で入社してから、五年片思いした末での成就に相川は大層浮かれたものだ。
交際は順調であった。
一年経って同棲を始め、二年目の記念日――二週間前に、プロポーズをした。
渡瀬は目を見張り、相川の顔を穴が開くほど見つめ、ややあって破顔した。その泣き笑いの表情を見て、相川は誓ったものだ。これから二人で歩んでいくのだ。どんな困難も二人で乗り越えていこう。渡瀬もきっと、同じように感じていると、相川は信じて疑わなかった。
しかし、その翌日。
渡瀬は姿を消したのである。
会社は退職済みであった。携帯電話は通じず、メールを送っても届かない。
会社関係の人たち、共通の友人や知人は皆一様に首を振り、こちらを心配そうに、憐れむように見るだけであった。
***
電車に揺られて、相川は帰路に着く。
久しぶりの定時上がりであった。今日も残って仕事をしようと思っていたのだが、吉田に叱られてしまったのである。
「相川さん、自分がどんな顔しているか、分かってます? 今日は俺らがやっとくんで、お願いですから帰ってください」
心配そうに述べる吉田の顔を思い出し、相川はふうと息を吐いた。そんなに、自分は酷い顔をしているのであろうか。
まだ時間が早いせいか、それとも各駅停車の車両だからか、電車はそこそこ空いている。
ドア横にもたれかかり、相川は窓の外を眺めていた。
雨は上がっているようであった。しかし、また降り出すのも時間の問題であろう。
鈍色の空。この世界の、どのような出来事を、どのような分量で混ぜ合わせれば、あのような色になるのであろうか。酷く憂鬱で、暗澹とした、息苦しい鉛色。
押し潰されるかのようなその灰色に、紫陽花の青だけが目に鮮やかであった。
「紫陽花の花言葉、移り気って言うんだって」
そう言ったのは、渡瀬であった。
二週間前、プロポーズの後のことだ。少しお洒落なレストランで夕食を取り、二人は道路を歩いていたのである。
「色がころころ変わるのが理由らしいよ」
「へえ」
「でも、それだけじゃなくて。いい意味の花言葉もあって」
「いい意味?」
「うん。強い愛情、とか。……家族団欒、とか」
少し回り道をして帰らないか、と提案したのは彼女であった。最寄りの一つ前の駅で降り、線路沿いの道を並んで歩く。その道に沿うようにして植えられた紫陽花――まだ咲き初めのそれを見て、渡瀬は目を細めていた。
遅い時間であったからか、人通りはほとんどない。この時間が終わってしまうのが勿体なくて、相川はわざと歩を緩めた。
優しい夜であった。
傘を叩く雨粒の軽やかな音も、土の匂いが混じった香りも、呼吸をする度に肺に溜まる涼やかな空気も、何もかもが新鮮で、まるで生まれ変わったような気分であった。
「これから、忙しくなるね」
「そうだな」
「ドレスとか、選ばないとだね。白もいいけど、青もいいな。紫陽花みたいな色、憧れだったんだ」
「いいね」
糸のような雨が、渡瀬の傘の上で、花嫁のベールのように広がっている。
「きっと、似合うよ」
そう言うと、渡瀬は照れたように笑って。
「ばか!」
悪態をついて、駆け出して。
「――危ない!」
耳を劈くような、音と共に、鮮やかな、赤が。
夜の闇に浮かぶ紫陽花の、滴るような真紅が、とても綺麗で。
光が、眩しかった。
「あれ……」
何かが、ちぐはぐのような気がした。
頭が酷く重い。あまり眠れていないからかもしれない。ドア横の手すりにもたれ掛かるようにして、相川は低く呻いた。
いつから眠れていないのだろう。
あの夜はどうだったか。
――も、決まったのにねえ。
頭をゆるく振る。
何かが引っかかっているのだ。
――可哀想に。
可哀想に。可哀想に。何度も聞いた。
窓の外には、紫陽花がある。こんもりとした、その緑と藍に埋もれるように。
赤い。
滴るように。
「……見間違いじゃない」
向かいの女子高生が眉を寄せてこちらを見ている。年配の女性が、静かに傍を離れていく。
相川は、乾いた笑い声を挙げた。
ほらみたことか。あるじゃないか。
赤い、赤い、紫陽花。
「見間違いじゃないんだ!」
思い出したら、渡瀬は消えてしまう。
だから、相川は。
赤い紫陽花を、見るのである。
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