見出し画像

景色のコトダマ Vol.8 不連続の連続

コロナ禍の第一波が収束に向い、各地域で緊急事態宣言が解除されつつあります。しかし、秋には第二波がくると多くの識者が予測。夏の甲子園をはじめ多くのスポーツ大会、コンサートなどが中止になり、私たちがかつての生活を取り戻すのは、まだまだ先になりそうです。

かつての生活。

と、私は、今書きました。書きながら「本当に、それは戻ってくるものなのだろうか」と疑いました。今回ばかりでなく、私はこれまでの人生で「かつて生活」を何度も失いながら生きてきたからです。

小学校を3回、転校しました。友だちをつくっても、父の転勤であっけなく生活を変えることを余儀なくされました。子どもの頃の経験は尾をひくものです。私の中に「どんなにがんばっても、今ある世界は2年もすれば変わってしまう」という思いが強く残りました。

離婚も経験しました。ある日を境に、マンションの部屋から半分の荷物が消え、がらんとした部屋で「ずっと続く生活なんてない」と悟りました。

がんも患った。無事にかつての生活を取り戻したものの、心は戻らない。一度、自分に与えられている時間には限りがあると知ると、「やるべきこと」と「やらざるべきこと」がはっきり区別されるようになりました。

以上は、個人的な経験です。ここに、阪神淡路大震災、東日本大震災、バブル経済、リーマンショック、そして今度のコロナ禍と加えていく、人生はけして連続しているものではないことがわかります。

あるとき、何らかの力によって、それまでの生活が断ち切られ、裸一貫、外に放り出される。シーシュポスの神話のように、坂の上まで運んだ石を、また一から頂上まで運ばなければならない。その繰り返しの中で、人生は少しずつ色彩を帯び、重力をもつようになる。不連続の繰り返しの中で、生きている意味が見えてくるものなのでしょう。

今年、甲子園を目指していた高校球児、海外留学に心を弾ませていた学生、小さくても確かな幸せにあふれたお店を経営されていた方々、自分の夢をかたちにしようと燃えていたアーティスト、ミュージシャン、そして地味でも今日よりよき明日を目指して生きていた人々すべてが「生活の連続」否、人生の連続を断たれました。「普通に暮らしていれば、人生は100年にも及ぶ」。そんな話はすでに遠く、「人生はロシアンルーレット。運が悪ければ死に至る災いがそこにある」という価値観に変わった。街を歩くこと、人と会うこと、景色は全く変わらないのに、お店を開くことも許されない中で私たちは、もう「かつての生活」とは違う人生を歩み始めているのではないでしょうか。

不連続の人生を生きる。

そのときに大切なものは、ディープセキュリティだと言われています。より注意深く、何重にも張り巡らされたセキュリティ。生きるための最低限のものは守る安全策。それはけして、過去の生活を取りもどすために、牛肉の販売を促進したり、観光を活性化させるのと次元が違うのは明白でしょう。私たちは、今度こそ、喉元を過ぎたら忘れてしまうようなことのないようにすべきです。

さらに個人は、たとえ目の前の目標を失い、かつての生活が消えてしまっても、これまで蓄えてきたポテンシャルを整理すること。すっぱだかにされても、私にはこれだけの能力があると胸をはる勇気とカラ元気が大切です。けして「昔はよかった」とうなだれないことです。

不連続の連続。

こんな矛盾した言葉が、きっと人生の本質なんだと思う。

自粛解禁が、あなたの新たな連続のはじまりになりますように。