見出し画像

「編集者」を辞めて見えた「編集という仕事」の価値やあり方、キャリアのこと。

「編集者」を辞めて1年以上が経った。

それまで10年近く編集の仕事をしてきて、2021年に妻の仕事の都合でアフリカで暮らすことになり、仕事を全部辞めて主夫になった。

会社員時代とはまったく違う、子育てと家事の日々。

子育ては修行のようでありながらも、子どもらの小さい時期の成長をこんなにも間近に見れる日常に、かつてない充実感を覚えている。

一方で、そんな日々を送るうちに「編集者」としての感覚は失われていっている。

編集者としての自分がこれまでどんなことをしてきて、これからどんなことをしたいのか。

そんなことをぼんやりと考える機会も多くなった。その一端をまとめてみたい。

1)自分の仕事を「語れる」か?

僕は自分の仕事について「語れないこと」が、ずっとコンプレックスだった。

ビジネス雑誌の編集者をしていた数年前、大企業の社長から現場担当者、編集者、時に芸能人やサッカー選手など、ありとあらゆる人に取材をしていた。

取材した人の多くが自分の仕事を悠々と語り、その姿は大抵カッコよかった。

一方で、話を聞いている自分に語れることは何もなかった。

編集者の仕事は一見わかりづらく、取材でも編集者という職業に興味を持ってか、逆に色々と聞いてくれる人は少なくなかった。

僕自身、社会人になってから、肩書きは違ってもほぼずっと「編集者」として雑誌やWEBメディア・サービスに携わってきたし、編集者へのアイデンティティも強かった。

なのに自分の仕事に、編集者である自分自身にずっと自信を持てずにいた。そして「語ること」を求められる場面で、いつもうまく言葉にできないでいた。

そんなコンプレックスを抱えつつ、いっそ恥を晒しながらでも語ってみようと思い、書いたのがこれだ。

書いて語ってみたことで、編集者として自分が何をやってきたのか、何ができるのかを多少なりとも理解することができた。

全身全霊でつくっていた『編集会議』の経験、それを言葉にして気づいたのは、やっぱり「コンテンツ・イズ・キング」こそが真理だ、ということだった。

市場原理はシンプルだ。つまらないものは消え、面白いものは広がっていく。結局はコンテンツが面白いかとか意味があるか否か、に尽きる。

もう一つ気づいたのが、僕は編集者なのだから自分で語るのではなく、コンテンツを通じて語る、そしていかに語ってもらえるか、ということだ。

コンテンツにはつくり手の意志が宿る。だからコンテンツに込める意志が、すなわち語るということでもある。

そして良いコンテンツに触れると、人は語りたくなる。そんな気づきから、「良いコンテンツ」とは「受け手が語りたくなるコンテンツ」じゃないかと思い至った。

「物語られるコンテンツになる」こと。それが編集者としてコンテンツをつくる上での指針になっている。

2)編集者の価値はどこにあるのか?

そもそも編集者とは何をする仕事なのか。

その答えは編集者の数だけあるだろうけど、僕としてはこんな言葉にまとめられるんじゃないかと思っている。

あらゆる「情報」を「コンテンツ」に変換し、コミュニケーションを通じて「価値」を創造すること。

たとえば、人や会社、また商品やサービスなどの魅力をあらゆる角度から引き出し、コンテンツに仕立て上げていく。

あるいは、これまでにない「視点」や「捉え方」を見出し、既存のイメージを更新する情報をコンテンツ化していく。

同時に編集者の価値は、コンテンツを通じたコミュニケーションから価値を創造することにもある。

これだけ情報過多の時代には、そのコンテンツに触れてもらうこと自体が難しい。結果として流れてしまうコンテンツも少なくない。

コンテンツ単体だと「どうすれば伝わるか?」が大事な一方、それと同じくらい、コンテンツをつくりながら「(社会や受け手と)どう関係性をつくるか?」「どんなコンテクスト(文脈)を生み出すか」が大事だったりする。

たとえば、ネット上の記事というコンテンツなら、公開するやいなやネット空間の濁流のなかに放り込まれ、一瞬のうちに消費されて(されずに)流れていってしまう。

コンテンツという「点」だけで見ると刹那的だけど、その集積を「線」として見る、つまり受け手あるいは社会とのコミュニケーションと捉えることができれば、少し見方が変わってくる。

コミュニケーションの積み重ねを通じた結果として、たとえば人や会社、また商品やサービスなどの「信頼」という価値が創造されていく。

あるいは、人の認識や行動が変容し、その結果として困っている人の「生きづらさ」が少しでも解消される、そんなコンテクストを社会に生み出せるかもしれない。

編集の力で、コンテンツをつくり、コミュニケーションを生み、これまでにない価値を創造していく。それが、編集者の価値なのだと思う。

ちなみに、編集者の仕事の肝に「企画」があり、僕は企画は「社会に向けて『問い』をつくること」だと思っている。

社会はノイズにあふれている。そこにある違和感やざらつきを丁寧に汲み上げて言語化し、問いをつくる。そして企画にする。

問いをつくるには、編集者として視野を広く持ちながら視座を高低させ、いかに鋭い視点を見出せるかだ。

最近読んで、編集者として学びが多すぎた『情報生産者になる』には、まさにそのことが書かれていた。

問いを立てるとは、現実をどんなふうに切り取って見せるかという、切り込みの鋭さと切り口の鮮やかさを言います。問いを立てるには、センスとスキルが要ります。スキルは磨いて伸ばすことができますが、センスはそういうわけにいきません。センスには、現実に対してどういう距離や態度を持っているかという生き方があらわれます。

3)どんな編集者としてありたいか?

「どう伝えるか?」と同時に「(受け手や社会と)どう関係をつくるか?」「どんなコンテクスト(文脈)を生み出せるか?」が大事だと書いたけど、本来それ以前に自分自身が「どうあるか?」だ。

編集者の仕事を辞めている今、まさにその問いに直面していて、このnoteを書いている。

僕は社会問題にずっと関心があり、いろんな社会問題について「知られてほしい」「想像されてほしい」という思いをずっと持ってきたし、できるだけ社会問題に紐づけた企画を立てることが仕事の軸だった。

と同時に、これまでしてきた仕事を振り返ってみると、他にも軸と言えるようなものがあり、主に以下のようなことだ。

■影や裏側に光を射し込む

あらゆる物事や事象には光と影があるけど、光を当てる対象もどこからどのようにして光を当てるのか(そしてどこに影をつくるのか)は「どこに視点を置くか」で決まってくる。

以前サッカー女子W杯をテーマとした記事を書く時、表舞台に立つ代表選手ではなく、彼女らに思いを託す側の人たちのストーリーを描いたのもその一例だった。

■新しい視点や捉え方を示す

たとえば、社会問題の多くは「なんとなくでしか知られていない」がゆえに、偏見やスティグマが問題となることが多い。だけど、「ちょっとしたこと」を知るだけで、見え方が変わり、想像力が拡張されることも多くある。

社会問題に対する新たな「視点」や「捉え方」について学ぶこと、それこそがこれからの時代の教養になるんじゃないか、として企画していたのが「教養としての社会課題入門」というコンテンツだった。

■想像力を拡張・駆動させる

コンテンツに触れることの効用は、想像力を拡張させ、駆動させることにあるのだと思う。想像力が豊かな社会ほど、人は人にやさしくなれる。セネガルで暮らしていても、それを強く実感する。

編集者として仕事をしていないことで燻っているのか、少し前にこんな取材noteも書いた。これも「アフリカで子育て」のイメージに対する想像力を拡張し、駆動させることを意図していた。

これらを軸に、今後やりたいなと思っていることもいくつかある。

たとえば、あったらいいな、あわよくばいつかやりたいなと思っているのが、社会問題を解決するための、ポジティブな側面にフォーカスするコンテンツやメディアづくりだ。

「生活保護」というイシューを例にすれば、不正受給が度々ニュースになるなど、ネガティブな話題性やイメージ、印象が根強い。

本来は権利である生活保護が、必要なはずの人になかなか利用されておらず、それによって少なくない人が死に追いやられている現状もある。

「利用しづらさ」の最要因は、社会に底通しているスティグマだ。

“悪すぎるイメージ”が更新されない限り、生活保護の利用を不必要にためらうケースは減らず、その弊害や代償は大きすぎる。

ならば、シンプルに生活保護を利用することのイメージをポジティブなものへと変換していく必要がある。

具体的には、生活保護を利用したことで路上生活から脱することができたり、人生の次の一歩を踏み出せたという人たちにフォーカスを当てることだ。

スティグマの根源は悪意ではなく、単に「知らなかった」とかそれによる無理解の要素が大きいんじゃないかと思う。

またそもそも社会問題に関する発信は「論破型で敵を減らしていく」より「ゆっくりでも理解する人を少しずつ増やしていく」アプローチのほうが解決的だ。

僕が知る限り、そうしたアプローチこそ必要なはずなのに、意外とあまりないように思う。

だからいずれは「社会問題の解決」に少しでも寄与しうるコンテンツづくりやコミュニケーション編集もしていきたいし、それこそが僕がありたい編集者の姿でもある。

4)編集者として編集者ではない仕事を

とはいえ、こうして書いてみての結論は、編集者のキャリアの先は、必ずしも編集者の仕事じゃなくてもいいのかもしれない、ということだ。

編集は、専門職というよりスキルだ。

だから編集者という職種・肩書きにこだわらず、編集力というスキルを生かして何をするかだし、そのあり方・スタンスが編集者を体現するのだと思う。生き方、と言えるかもしれない。

編集力というスキルは、どんな仕事にも生かせる。だからこそ、これまで経験したことのない新しい領域でチャレンジしたい気持ちも強い。

この先、どのくらいセネガルで暮らすことになるのかはすべて妻の仕事やキャリア次第だし、2, 3年後にどこでどんな暮らしているのかもわからない。

でも、そんな先が見えない人生を常に面白がれる自分でありたい。そして、それも含めて、生き方は常に編集者っぽくありたいなと思っている。

この記事が参加している募集

編集の仕事

読んでいただき、ありがとうございます。もしよろしければ、SNSなどでシェアいただけるとうれしいです。