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四十にして惑う、青白い点を走るパルス。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治「春と修羅」

宮沢賢治の心象スケッチ「春と修羅」。この序文の一節がここ最近自分の中に揺蕩っている。
初めて手にとったのは中学校の頃。漫画「特攻の拓」の登場人物 天羽くんが「春と修羅」を引用したセリフを用い、かっこいいなあと思って図書館で探したのでした(これぞまさに中二病)。
当時はなんのことかちんぷんかんぷんだったけれど、この歳になって、短いながらも人生経験を積み、自分なりの思考を重ねてきたことで、この序文の意味を掴めるようになってきたように思う。

僕らは宇宙のシミの上で瞬く電気信号だ。

Pale Blue Dot(青白い点)と名付けられた写真をご存知だろうか。惑星探査機ボイジャーが母なる大地からはるか遠くの宇宙空間から撮影した地球の写真だ。写真の中央あたりにぽつんと見える青白い点。それが我らの地球だ。

"Pale Blue Dot" 惑星探査機ボイジャーが撮影した地球。

この宇宙は広大無辺であり、途方も無い数の銀河が存在しているという。また、宇宙の始まりの前には"何もなかった"と。その何もなかったところから生まれた前後不覚の大空間の中で、回転運動を続ける球体(というかもはや点)のその表面に蠢く極微小な豆粒。そしてその青白い小さな小さな豆粒のうえで、久遠の時間のほんの一瞬、チカっと明滅する。それが僕たちだ。

そう、だから、こんなちっぽけな存在が日々抱える悩みや苦しみなんてとっても小さなことなんだからくよくよせずに生きよう!などとノーテンキなことを言いたいわけではない。
むしろこの事実に僕はいつも恐れおののいている。
この絶望的に大きな宇宙の中の、取るに足らない存在である自分は、何のために今ここに息づいているのだろうか。どう考えても、宇宙の中に僕が今こうしてここに存在している合理的な理由にたどり着けない。小さな小さなゆらぎでしかない自分。そんな世界に今こうして存在していることを、「みんななんで平然としてられるんだ?」と心から不思議で仕方がないのだ。どうやって納得してるの?
こうした考えに囚われるとついにはパニックに陥ってしまうのだ。

それでも愛さざるを得ない日常。

とはいえ、四六時中自分がなんでここにるのかと考えているわけではない。それはむしろふとした時にこみ上げる衝動のようなもので、普段は目の前の日常をあくせくと生きている。

年始に赤ん坊が生まれました。今ではつかまり立ちをし、手当たりしだいに目についたものを口にいれ、一時も目が離せない。その成長スピードには毎日驚かされるばかり。
その娘(当時は性別も分からなかったけれど)が妻のお腹に息づいたばかりのころ産科のエコーでみた娘の姿は忘れることができない。
その姿はまさに電気信号そのもので、白黒の画面の中で明滅する点だった。
大宇宙のなかの青白い点も、その中で息づく新たな生命も、皆全てチカチカと瞬く点なんだと頭ではなく、全身でまさにビビビと感得した瞬間でした。

明滅する命。

そして、この単なる明滅へと強く感じる愛情や慈しみの感情がもつ質感は疑いようもなく厳然と自分の中にみなぎっていて、所詮大きな宇宙の片隅のシミかもしれないけれど、ここに今あるこの感情は(ニューロンの発火現象が生み出すパターンだとしても)今自分が手にしている確かなものだと認識したのでした。

結び目のひとつとして惑うことしかできない。

西欧思想では僕たち一人ひとりはこれ以上分割(divide)できない存在であるindividualという語が当てられる。
僕はこうしたソリッドな存在としてよりも、東洋的(あるいは仏教的)な考え方のほうにより共感を覚える。僕たちは、というかこの世のいかなるものも固定化した強固な存在ではありえない。むしろ、自然や人々、無数のモノコトとの関係性の中に立ち上がる一時的な現象でしかない。あるいはあらゆるものが相互に作用し合う網目のなかの結び目の一つでしかないのだ。
ある人との関係がほころんでいても、また別の誰かとは強く結びついていく。あちら側に引っ張られたと思ったら、こちら側に引き返される。360度寄せては返す波の中をいったりきたり天地がひっくり返ったりしながら、網目を構成している常に移ろっている動的平衡状態なのが僕たちだ。鶴見和子は「そつ点」と言っていたと思う。漢字は忘れた。
この相互に繋がり合う世界観では、とんでもなく広大な宇宙空間にも、足元の微小な世界の中にも無限が存在し、そして互いが互いを移し合うスーパー入れ子状態のフラクタル空間だ。一が全てに映し取られ、全てが一に映される一即多の世界観。
南方熊楠は熊野の山奥で粘菌の中に宇宙を見出し、南方マンダラを記した。

南方マンダラ

このフラクタルな世界にうまれた泡沫の僕たちは、大きな大きな宇宙の中の小さな小さな豆粒の中の、さらにその上をほとばしる一瞬の電気信号でしかない。
そうかも知れないけれど、この小さなパルスは無限を生み出していて、小さいからといって些末な無視できるノイズなのではなく、喜び苦しみもがきながらも、世界を構成する大切な結び目のひとつとしてここにいるんだと思えるようになってきた。(だからといってそれでも「なぜ」は消えないのだけれど)
そして、この広大な宇宙を回転運動する天体も、自然界の様々な生命も、そして僕たちも、自分の手足の届く範囲を動き回ることしかできないという意味では皆おなじ。惑星の「惑」という字には、心が何かにとらわれて正しい判断ができなくなるという意味の他に、「一定の区域を囲み動く」という意味がある。そう僕たちはみんな「惑星」だ。

明日、四十を迎える。
「四十にして惑わず」という言葉があるが、なんのことはない、四十年かかって、僕が気づいたことは僕らは「惑う」存在でしかないのだということだ。
四十代、さあやったるで!という意気込んだ目標などはあまりない。
それよりも、惑い続けることで世界を紡ぎ、日々感じる喜びや慈しみに手触りを覚えながら、おぼつかないながらも揺蕩っていくしかないのだろう。
そんな風な心持ちでいたいと思う、三十代最後の日。

今朝の散歩道、雨露ですこし頭を垂れたアザミがとってもきれいでした。

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