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#自分探し #自分らしさ #何者

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誰もが通る道。
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#独り言

"焦燥"というエンジンに頼りたくない

何かを始める、何かを頑張る、いつだって自分を衝き動かしてきたのは「焦燥感」だった。 絶妙なタイミングで湧き上がったあの焦燥感がなければ、今の自分はなかったのかもしれないけれど、僕には焦燥感というエンジンしか搭載されていない。 そんな焦燥感と切っても切り離せないのが、他者との比較だ。 「他者」 一体、誰を思い浮かべているのだろう。誰とそんなに競い合っているのだろう。 不幸中の幸いと言って良いのか分からないけれど、他者と自分を比較しても劣等感は感じない。もちろん、他者を

ありのままで、本当に良いのだろうか

「ありのままで良い」 「あなたは、あなたらしくいれば良い」 すごく聴き心地の良い言葉。 実際、それらの言葉に救われたこともあったし、一歩踏み出せたこともあった。苦悩を抱える人に、そっと投げかけたこともあった。 けれど、常々思う。 「ありのままって、何だろう」 「私って今、ありのままでいられているのかな」 そもそも、本当にありのままでいて良いのだろうか。 ありのままでいることが、今の自分にとって本当に必要なことなのだろうか。 一歩踏み出せない自分、何かを変えたくて

2021年も、出会えなかった

好きな芸能人やYouTuber、久しく会っていない同級生、お世話になった先輩、田舎に住む親族、“今年も会えなかった人”もいれば、“今年はやっと会えた人”もいた。 会いたい人や会ってみたい人はたくさんいるけれど、「会いたい」と思う全ての人に会う前に、どうしても会っておきたいヤツがいる。 自分自身。 今年も会えなかった、いや、出会えなかった。 偶然も必然も、どんな出会いよりも、そろそろ僕は「自分自身」と出会いたい。 「自分はこういう人間だ」 「〇〇で××なのが自分だ」

「何してる時が楽しいの?」に答えられない

おそらく聞く人にとって深い意図はないのだろうし、それほど重たい質問ではない。 「何してる時が楽しいの?」 今まで何度か聞かれたことがあるはずなのに、「出身はどこですか?」みたく反射的に答えられない。聞かれる度にいつも「何してる時が楽しいかな?」と自分自身に問いかけてみる。 「んー、何ですかねぇ」とワンクッション挟んでみるけれど、たいてい、「散歩してる時ですかね」とか「YouTube観てる時ですかね」と答える。 答えた後に、「うわぁ、何かしっくりこない」と一人反省会が始

なりたかった自分に、なれているだろうか

なりたかった自分に、なれているだろうか なりたくなかった自分に、なってはいないだろうか なりたかった自分に「なれていない」と分かった時の悔しさや悲しさよりも、なりたくないと思っていた自分に「なっている」と気づいた時の絶望感の方が大きい。 「毎日疲れた顔して、満員電車に揺られるなんてごめんだ」 ジョッキを片手に吐いたいつかの言葉を、皮肉にも、満員電車の窓に映る自分を見て思い出すんだよな。 「あれ、私ってこんな顔つきだったっけ」 「あれ、俺ってこんなに小さかったっけ」

「普通」じゃ満足できないボクらは

「普通」という言葉に、どれほど振り回されているのだろうか。 「普通で良い」とか「普通じゃ嫌だ」とか、何でもかんでも「普通」が基準になっている。 そもそも、そういう基準になるものが「普通」なんだろうけれど。 「普通でいたくない」という欲求が行動のモチベーションになったり、何かのきっかけにもなってしまうくらい。 「普通」に満足できることなんて、あるのだろうか。 普通でない何かを手に入れたとしても、一度手に入れてしまったら、やがてそれは「普通」になってしまう。 そうして

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

自己肯定できるからこそ、自己否定をする

成長とか目標の達成とか、そういうものを追いかけようとすると、自己否定は避けて通れない。 自己否定とまではいかなくても、 ・もっと良くできるはずだ ・本当にこのままでいいのか? と自分自身や現状に対して疑ってかかったり、自己正当化バイアスをメタ認知できるような機会が少なからず必要だと思う。 - 「自己肯定感」は、セーフティネットのようなものだ。 どれだけ苦しく、辛い出来事があっても、最終的には「それでも前に進もう」と思えたり、「自分なら大丈夫だ、何とかなる」と思える

「趣味とかあるの?」に毎回答えられない

趣味を聞かれるのが苦手だ。 聞かれる度に毎回答えが変わるし、自分で答えていてしっくりきたことがない。 休日の過ごし方とか日常的にやっていることを答えておけば良いのだろうけど、どうも厄介な認識や基準があって、うまく答えられない。 ・あまり他の人がやっていないようなものを答えなくちゃ ・ある程度継続的にやっているものを答えなくちゃ ・得意と呼ぶに相応しい何らかの実績があるものを答えなくちゃ これらに当てはまるものがないから、本当は答えたくない。 結局、いつも「文章を書く

何もうまくいかない。いつも“大きく”考えてしまう僕ら

うまくいっていない時、何となく「何もうまくいってない」と思いこんでしまう。 「あー、恋愛と趣味と友人関係はけっこう良い感じなのに、今月の営業成績だけが悪くて仕事がうまくいかねぇ」 とはあまり思わない。 それくらい冷静に考えられる内は、むしろ「大丈夫」なのかもしれない。 「全然だめだ」、「何もできていない」、つい事を大きくしてしまう。 それ自体はよくある話だけれど、度が過ぎると不毛な自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう。 何か失敗をした時に「もうこれから先何をやっても失

流れゆく日々の傍観者、変わらない何かを探そうとする僕ら

友人の幸せに対して、喜びよりも先に焦りや嫉妬を感じるようになることが、「大人になる」ということかもしれない。 転職、独立、結婚。 人生の転機を迎える、新しいステージへ進む、そんな変化の真っ只中にいる友人の“変わらない何か”を探そうとする。 「昔からこういう人好きだったもんな」 「昔からこういうノリで生きてたもんな」 「相変わらず、我が道を行くタイプだな」 それもまた、「大人になる」ということかもしれない。 - 僕らは、日々変化にさらされている。 「自分は傍観者で

万人受けしようとすると、誰にも受けなくなる

マーケティングやブランディングといったビジネスに限らず、人間関係や生き方にも同様のことが言える。 みんなに好かれようとすると、広く浅い関係値になってしまうかもしれないし、ツッコミどころのない生き方をしようとすると、無難になってしまうかもしれない。 自分が周りに合わせていくことも大事だけれど、どこかで“わがまま”にならなければいけない。 誰にだって、譲れない何かが一つや二つある。 それを譲ってまで維持したい人間関係、生き方、果たしてそれは本当に自分が欲しいものなのだろう