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燻るソブラニーの記憶

閉鎖病棟の喫煙室は、教室の女子グループがそのままここに持ち込まれたような気がして、嫌いだった。
60分/日の自由時間に許されていたことは、喫煙室とナース室の間の狭い通路をぬけて、無害な図書閲覧室に逃げ込むことだけだった。図書室には、害のない古ぼけた童話の文庫本、それとページが検閲されて薄くなった新聞しかなかった。自分の本を持ち込むことは許されていなかった。私の好きな本には角があったし、硬かったり重たかったりした。

廊下ではたくさんの大人たちが延々と無表情に歩き続けていた。彼らの頭がおかしかったからじゃない。閉鎖病棟で廊下歩きを欠かせば、あっという間に便秘に悩まされることになるからだ。
皆、外から忘れられていた。
ひとりでずっと腕立て伏せをしている人がいた。音符を延々と真白なスケッチブックに書き続けている人もいた。
私はひとりだけ子供だった。
特別に、毎朝のシャワーと洗髪を許してもらえていた。私の体中の血管からたくさんの虫がはい出さないために、それがとても重要なことだって先生に教えていたし、先生が看護師さんに言ってくれたから。

大好きなおじさんがいた。
顔は覚えていない。
口ひげと、ちょっと足を引きずってゆっくり歩く癖、いつもモスグリーンのセーターを着ていた気がする。
おじさんは、いつも喫煙室でひとり、パイプをふかしていた。どのグループにも属さずに、パイプの飴色が、病棟の少ない光を集めて照らしていた。
初めて拘束された後にシャワー室に連れて行かれた朝、私はおじさんと目があった。
おじさんは笑ってくれた。表情なんかどこにもない場所で、おじさんはまるで普通の人みたいに笑った。おじさんが、ほんとは選ばれた「普通の人」なんだって、私にはすぐにわかった。
だけどきっとおじさんはここで殺されてしまうんだ。
おじさんはそれを飄々と受け入れて、パイプをふかして、普通に笑っていた。

バルカン・ソブラニーの香りがした。おじさんは私にキスをしてくれなかった。
「君はまだ子供なんだよ」って言った。だからおじさんは、やっぱり殺されちゃったのかもしれない。
私は、今もまだ子供のままだ。

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