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古甲州道、滝山と言えば滝山城だから北条氏かせいぜい大石氏でしょ?!, いやいや奥多摩山塊修験道の一の鳥居ですよ

古甲州道の府中、日野と来て、古甲州道は日奉宗頼を祖とする西党の道だと言ってきました。

果たして滝山にも西党の痕跡が残っているのか―――。

残ってませんでした。

府中、日野で、この推論は間違い無い!!, 古甲州道は、少なくとも日奉宗頼が武蔵守の任務完了して日野に土着した936年には成立していた古道である、と、思ってましたが、早速挫折―――と、思いきや、西党が行き来するという理由以外の理由を発見しました。

古甲州道は、奥多摩山塊の修験道聖地、高尾山と御岳山への参道だったのです。で、ここ滝山は、武蔵野台地扇状地の扇の要の位置にあり、つまり、ここから奥多摩山塊が始まる位置にあり、よって、奥多摩山塊修験道聖地への一の鳥居的位置付けのエリアだったということが分かりました。

ではご紹介します!!

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龍光寺です。

八王子市史によれば、開創時期は詳らかならずも開山は1396年寂の清雅ということですから、永和年間(1375〜1379年)に京都醍醐寺から俊源大徳が高尾山に入り、飯縄権現を守護神として奉った辺りでしょうか。

法流は高尾山薬王院と同じ東密三宝院流の支流、松橋流ということですので、高尾山との関係が深いようです。高尾山の信仰を広げる為に、ここ滝山に開かれたと言ってもおかしくないでしょう。

次は丹木御嶽神社です。

境内説明によれば、

―――往古蔵王権現社と称し高月村にあり、今の滝山城跡山頂に蔵王堂が鎮座。社の立は推古天皇代(五九五年)滝山城築城以前の開山とある。歳移り藤原時代康平二年(一〇五九年)源義家公社を再興し社殿悉く新築した。その後北条陸奥守氏照城郭造営の際現地に移したとある。この時天文十三年六月六日である。―――

という古社です。

御嶽神社はここだけでなく、

社号は勝手神社です。勝手神社、聞かない名前ですね。祭神は押武日之命、これも聞かない名前ですが、安閑天皇のことです。東京都神社名鑑によれば、丹木御嶽神社の末社として創立されたとのことで、1349年に大石信重が懸仏一面を奉納したといいます。

勝手神社の本社は大峰山の鎮守社となる吉野八社明神の内の一つ。また、吉野川の水源に当たる青根ヶ峰は水神として崇敬を受け、山頂に金峯神社、山腹に吉野水分神社、山麓に勝手神社が建てられています。金峯山寺の蔵王権現、吉野水分神社の子守権現、勝手神社の勝手権現は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請されていたり、能の嵐山では、吉野から移植された嵐山の桜の花守である老夫婦が、勝手、子守両神の化身で、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三位一体であると語られるなど、勝手神社は金峰山修験本宗の総本山、金峰山寺と非常に縁のある神社です。

安閑天皇は蔵王権現と習合しています。

と、言うことで境外末社を持つほどの規模の御嶽神社の古社がここ滝山にはあるんです。

古甲州道を西進するとやがて秋川沿いに進み、養沢川合流点から養沢川沿いに御嶽神社まで古道が続いています。

この道は江戸時代までメインの御嶽神社参道ルートだったようです。

はい、ということで、古甲州道は、御嶽神社への参道ルートだった、滝山の丹木御嶽神社とは、早くて595年には既に接続・成立していたということになります。

高尾山にも、古甲州道ではないですがここ滝山から分岐して向かう古道があります。江戸時代の甲州道中ですね。このルートは江戸時代以前から使われていたんじゃないでしょうか?!

ここ滝山が、高尾山と御岳山の分岐点、言い方変えれば合流点だったのです。だから、奥多摩山塊修験道聖地の一の鳥居的位置付けで、古甲州道は、御岳山への参道ルートだったのではないか、と、こういう推理をしたということになります。

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如何でしたでしょうか。

滝山、良い所でした。地形に基づく、奥多摩山塊の修験道聖地への一の鳥居的位置付けだった(私の推論に過ぎませんがこの妄想が楽しいのです。)とは、興味深いですね。

タイトルにもありますように、しかし、滝山と言えば滝山城で、ここは城下町です。横山、八幡、八日市という地名はここ滝山から元八王子、更には今の八王子へと引き継がれています。

道としてもクランク部分や地蔵などが残っていたりして和みます。

冬になったら滝山丘陵のトレイルをグラベルバイクで走りたいです。

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