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古甲州道、府中は多摩川に翻弄されたがその結果水の都になった

東京と山梨を結ぶ古道というと、甲州街道を思い浮かべると思います。

家康江戸入府時に五街道を整備しましたがその内の一つが甲州街道ですね。

が、今回取り上げるのは、その甲州街道の前身、もしかしたら律令の時代(7世紀後半〜10世紀)に遡れるかもしれない、古甲州道です。

武蔵国の国府府中と甲斐国の国府甲府とを接続する古道になります。

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これは大國魂神社の随神門ですが、この前を横切る道が古甲州道です。

因みに甲州街道は写真を撮っている私の背後、数十メートル先ということになります。

この先の道筋ですが、JRの線路を越え、鎌倉街道、分梅駐在所交差点からは御猟場道と名を変え、NEC府中事業場を突っ切り、日新通りと名を変え、上之島神社に至る道です。

※中段右端の赤ポイントが大國魂神社、同左端(多摩川の直ぐ右)の鳥居マークが上之島神社、それを結ぶ紫線が古甲州道です。因みにオレンジ線が甲州街道です。

律令の時代に遡れる古道中の古道ですが、今はその面影も無く、ごく普通の道で、写真を撮らねばと思いましたが、シャッターを切る気になれませんでした。

恐らくこれがその理由でしょう。

上記地図の一際太い青線が古多摩川の、それより少しだけ細い青線が古浅川の流路なんです。

古多摩川はほぼ今の府中用水と重なり、古浅川は、今の多摩川と合流するまでは変わらずで、合流して以降はむしろ今の多摩川の流路と重なっています。

※国立市泉三丁目付近の府中用水、古多摩川の流路ということになる。

古甲州道は正に、古多摩川と古浅川に挟まれたエリアにあったんですね。

古浅川の大水はこのエリアに溢れるでしょうし、古多摩川の左岸は府中崖線なので跳ね返され、やはり、このエリアに溢れるでしょうから、このエリアは一見陸地に見えても実の所川の一部と言っても良いエリアなんです。

古甲州道は度々洪水の被害に遭ったでしょう。路傍の地蔵や庚申塔、馬頭観音なども流され、古道の面影は無くなっていったのだと思います。

※ここは上之島神社までの古甲州道の道筋をそのまま素直に真っ直ぐ来た場合の、今の多摩川との出合い地点です(上記地図でやや細い紫線)。はい、ここに多摩川は流れてなかったということになります。

※石田の渡し、勿論ここも渡し場ではなかった。だって川自体がないのだから!!

※NEC府中事業場正門前を流れる新田川。これが古多摩川です。むしろここに渡しがあった。

実際、古甲州道は、ルートを変更しています。1604年の以前は紫線、1684年以降はオレンジ線、その間は黒線です。黒線は古多摩川と重なってしまいますがご心配無く。多摩川の流路が今の流路となったのは1590年の大洪水以降だということですので、黒線になった時には多摩川は今の流路になっていたということになります。

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このように、多摩川に翻弄された府中エリアの古甲州道ですが、その代わりと言っては何ですが、このエリアは、古多摩川の名残りである府中用水と府中崖線の湧水が織り成す癒やしの風景が広がる水の都です。

※ママ下湧水

※矢川おんだし

※府中崖線をトラバースする三田氏館脇の土道

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