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古甲州道、日野と言えば土方歳三?!, いや日奉宗頼でしょ!!

古甲州道シリーズ、前回は府中でした。

今回はその先、日野です。

日野というと皆さん土方歳三を思い浮かべると思いますが、確かに、日野を訪れると痕跡がそこかしこに残ってる(地元の方々のご努力!!)んですが、今回は律令の時代(7世紀後半〜10世紀)に遡れるかもしれない古甲州道がテーマですから、土方歳三、新選組関係はスルーします。

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日奉宗頼は931年に京都から武蔵国に下向し、932年から、936年に藤原善方に変わるまで武蔵守を務めました。

その後、日野の地に土着します。

武蔵守は仕事場も生活の場も府中でしょうから、古甲州道を通って日野まで来たんでしょう。

と、なると、古甲州道は少なくとも936年には既にあった道、ということになります。

さて、日奉宗頼が祖神天御中主尊・高魂尊を祀り創建したのが日野宮です。

その孫宗忠は西内太夫と称して、西党嫡流の始祖となりました。

子孫は日野宮に、日奉宗頼、宗忠を併せ祀って日野宮権現とし、崇敬したと言います。

日野宮の直ぐ近くには日奉宗頼の妻を祀る姫宮権現社もあります。

※姫宮権現社

また、館があった場所はこの東光寺神明社の背後の台地上と言われています。

※東光寺神明社

今は成就院に移設されていますが、この神明社の直ぐ北には東光寺が、鬼門除けとして開創されました。

※東光寺薬師堂

さてこの日奉宗頼。名字は、"ひまつり" と読みます。日祀部という、太陽信仰に基づく太陽祭祀を職業とする一族の出身とのこと。

偶然か必然か、冬至の日、日野からは、富士山頂に沈む夕日が拝めるのです。これが日奉宗頼がこの日野の地を選んだ理由だとしたら、非常に興味深いですね。

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ということで、日野と言えば土方歳三ではなく日奉宗頼だということがお分かり頂けたと思いますし、古甲州道が少なくとも936年には成立していた、少なくとも府中〜日野間では、ということもお分かり頂けたと思います。

本文でも触れましたが、日奉氏はその後、武蔵七党の一つ、西党の党首となり、西、長沼、上田、小川、稲毛、平山、川口、由木、西宮、駄所、由井、中野、田村、立河、狛江、信乃、清恒、田口、二宮、犬目、高橋、小宮と言った本拠の地名を名字とした一族を残しています。

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