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鎌倉街道 山ノ道、軍畑〜高尾

南北する一條は多摩郡より当郡名栗村へ係り山伏峠を越えて蘆ヶ窪、皆野、金崎、日野沢、金澤より児玉郡阿久原村を歴て上州緑野郡鬼石村へ達す。

風土記には各郡の冒頭に街道記述がありますが、これはその秩父郡の一節です。

現代で言うと、成木街道シリーズで訪問した成木街道から、小沢峠を越え東京から埼玉に入り、K53青梅秩父線で入間川を遡上し、山伏峠を越え、R299で横瀬川を下り秩父に至って、K44秩父児玉線で荒川を下り、児玉太駄からはK13前橋長瀞線で杉ノ峠を越え神流川を渡り群馬県鬼石に至る道筋となります。

これは正に鎌倉街道 山ノ道のことですね。

また、御嶽道シリーズの南御坂で訪れた平井村の、同じく風土記の記述では、

平井村
村内に一條の道係れり、御嶽山への往還なり。東の方より大久野村の境に達す。村に係ること一里許り。また、古の鎌倉街道なりというあり。これは秩父よりの道にて三田領の下村より梅ヶ谷峠大久野を経て東南に係りて当村に入り野口坂(一名十王坂)より南北の通路とす。この所はその頃の古駅にしてここより二里を隔てて山入村にて人馬をつきしという。今もかの村に馬次という遺跡あり。またその頃亭の長なりしものの子孫なりとて野口氏の百姓今に存せり。その家の伝えにこの亭は秩父庄司重忠が旅館にして近き辺に暇館という小名あるはかの重忠の従者を宿せし遺跡なりといえりこれ等はみな付会の説なるけれど古き街道なることは論なかるべし。

と、ありまして、これも鎌倉街道 山ノ道を言っていて、先程の小沢峠からここで言う下村までの道筋は、小沢峠~松ノ木峠~榎峠~軍畑〜下村、ということになります。

と、言うことで、鎌倉街道は都内近郊中心にこれまでも多く走っていますし、山ノ道も高尾から町田までは走っていますが(町田から先は上道と重なる。), 上記は未走だし峠越えが楽しそうですから、まずは第一弾として、軍畑から高尾までをexploreしたいと思います。


軍畑駅まで輪行、まずは、鎧塚を訪れます。

夏なので分かりづらいですね。正面のこんもりとした小山が鎧塚です。

風土記に、

街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す。二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。

とあります。永禄六年1563に落城したのは三田氏の辛垣城で、落としたのは滝山城主北条氏照ですした。

北条氏照、今日の主役の一人です。

三田氏は元々関東管領山内上杉氏に仕えていましたが、山内上杉氏が、1546年の河越夜戦で後北条氏に決定的な負けを喫すると、後北条氏に仕えるようになります。しかし、嘗ての主君山内上杉憲政が、長尾景虎後の上杉謙信を養子に迎え、関東管領職も譲って、1560年、越後から関東に進出してくると、そちらに付き従います。そして、1559年頃、大石氏に養子に入った北条氏照が、家督を譲られ大石氏が支配していた南多摩の実権を握ると、滝山城から古甲州道、上川口峠、梅ヶ谷峠、軍畑と進軍し、辛垣城の戦いとなったのです。

辛垣城の麓、二俣尾駅付近にある海禅寺に残る三田氏最後の当主三田綱秀の首塚、青梅街道シリーズで訪問、2024/5撮影。

軍畑大橋で多摩川を渡河します。尚、軍畑、の地名はこの辛垣城の戦いから来ています。

軍畑大橋を渡って川緑に下りて古道を行きます、当時のままか

御嶽道シリーズの北御坂で走った吉野街道の一つ西、山裾の道が鎌倉街道山ノ道です。

鎌倉街道と吉野街道の辻に立つお地蔵さん、この道は鎌倉街道
鎌倉街道の道標板

私も私本太平記を始め、沢山読んでます、吉川英治記念館の裏手には愛宕神社があります。

ここは御嶽道シリーズ北御坂で訪問済みなのでスルーします。写真はその時(2024/4)のもの。

拝殿、奥の院は遥か山の上
境内からはこの絶景

建久年間1190〜1199. 頼朝が畠山重忠に命じて、山頂に社殿を再建したとも、三田氏の祖先相馬師門の後裔師秀が、辛垣城築城の際に、その鎮護のため愛宕神社を勧請したともいわれています。

本日の主役2人目、畠山重忠の登場です。

その直ぐ先に即清寺がありますが、ここも御嶽道シリーズ北御坂で訪問済なので写真は当時のものを。

即清寺、2024/4撮影

元慶年間の開創で、建久年間1190〜1199, 頼朝が畠山重忠に命じ造営しました。また、北条氏照にも信仰されました。

ということで本日の主役二人から信仰された寺院ということになります。

はい、鎌倉街道山ノ道の軍畑から高尾に向かう道は、畠山重忠と北条氏照の道なんですね。

本日はこの二人の足跡を追っていきたいと思います。

先を行きまして、竹林寺を過ぎて梅ヶ谷峠への上りとなります。

実は3回も止まってしまいました。暑さでしょうか、寝不足でしょうか。

梅ヶ谷峠、コンクリート擁壁の上辺と平行して、一段上に古道が見えますね。当時はもう一段高い所を通っていたことが分かります。

下って、水口の集落に入りますと、西徳寺があります。

西徳寺

ここには獅子岩と言う大きな岩があって、北条氏照が滝山城へ移そうとしましたが、境内の外には何をしても動かず、観音様の霊石が故、という話もあって、事の次第を家臣が北条氏照に報告した所、氏照も氏照、元に戻しておけと、お咎め無しだったという伝承があります。

獅子岩、目の所に何でしょう、ボールかな、があるので分かり易い。

北原で秋川街道と合流し、坊平、落合と行ったら本宿です。ここが、風土記平井村にあった、古駅、ですね。古地図を見ると西光寺の辺りが最も栄えていたようです。

西光寺、風土記によれば、"境内除地、一段五畝十二歩、本宿の西側にあり、佛石山寶蔵院と號す、新義眞言宗、大久野村西福寺末、當寺は古の創建なるよし云傳へたれど、天正年中回録にかゝりて、舊記を失ひたれば、其詳なることはすべて知べからず、住持世代の内に法印清譽天正十二年十二月八日寂すといへば、これより前の寺なることしらる", とあって、少なくとも、天正年間、北条氏照の時代には存在していたということになります。氏照から平井の伝馬奉行に対する印判状も残されていますから、氏照の時代に宿駅だったことは確かなようです。また、風土記にもあった野口氏ですが、検索すると農場や学校、不動産など、土地を活かした事業でその存在が今でも感じられます。

先を行きましょう、山田大橋で秋川を渡って網代トンネルに入らずにその脇を上ります。上り詰めた上川口峠には、畠山重忠駒繋ぎ石があります。ここはもう3度目です。

畠山重忠駒繋ぎ石、この季節はいつもこうして鬱蒼としています。本日2つ目の峠。足着きは一回。

峠を下るとその名も重忠橋。

重忠橋

その隣には田守神社。

田守神社、本尊は畠山重忠念持仏

更に、通りの向こうには畠山重忠手植えの桜がある大仙寺

大仙寺、1212, 実朝開基
伝畠山重忠手植えの桜、の子孫

その東、鎌倉街道山ノ道沿いには、畠山重忠建立と伝わる西八幡大神。

途中にあった道標、右青梅、左高尾山。はい、青梅から来て高尾に向かっています。
そして、西八幡大神

と、畠山重忠の痕跡が5つも並んでいました。

さぁ、戸沢峠に向かって上りです。

戸沢峠、本日3つ目の峠、足着き無し

下り切った所は山入で、風土記で、馬次があった所となります。

山入から川原宿に入ります。嘗ての宿駅でしょうか。

上宿通り、確かに、街道の雰囲気が残ってます。

上宿通りを左折して、さぁ、本日の主役の一人、北条氏照と言えば、八王子城です。

稱讃寺がある名も無き峠を越えて、

名も無き峠

大沢川の谷に下りて、霊園の丘にまた上り名も無き峠を越え、城山川の谷に下りて、八王子城です。

御主殿に向かう大手道古道
大手道古道から城山川を渡る曳橋と御主殿
御主殿の石垣、これ、当時のものですよ。

八王子城は検索するとたくさん記事が出てますから詳細な説明は割愛しますが、1580年代に北条氏照によって築城され、1590年の秀吉による小田原征伐の時に落城しました。

落城時、氏照は小田原城に詰めていて、城代の横地監物に密命を下していたと言います。万一の時は落ちて北条家を再興せよ、と。

上杉景勝、前田利家・利長軍による猛攻で、もはやこれまで、となった所で、監物は、檜原城に逃げ落ちました。

そのルートですが、檜原街道シリーズで紹介した、笹平〜市道山〜醍醐〜恩方〜八王子城と言うルートなのではないでしょうか。

ということで、行ってみましょう。

猛暑日で、時刻も昼だったからか、口留番所跡付近の案下道と醍醐道が分かれる所までが既にキツかったです。

口留め番所跡、風土記によれば、"高留と言う所に番屋を設ける。甲州への脇往還である。東の方 下恩方村よりこの関にかかり、一町程西の方にてニ條に別れ、一條は相模の國、津久井縣への往還にして、又一條は村の北の方、醍醐の辺りへ通じている。これ甲州への往還なり。"

醍醐道に入ります。龍泉寺です。

1464年開創、鎌倉期作の鉄造聖観音菩薩立像がある。

徐々に勾配は増しますが川沿いなので少し涼しい気がします。やがて、龍蔵神社です。

龍蔵神社、良い雰囲気

創建詳らかならず、ですが、寛文元年1661年の棟札もによると、その時から700有余年前、ということですから、平安期に遡れる古社ということになります。

祭神は岩龍姫命で、昔ここ石船山に神龍が舞い降り社を建てたという伝承があります。この先に龍神淵と呼ばれる淵もあり、この辺りには、龍神、つまり雨乞いの伝承があります。先程の龍泉寺もその一つでしょう。

七沢でも同じ話がありましたね。社名も同じ龍蔵神社でした。

龍蔵神社から程無く、市道山を経由して檜原へと続く、横地監物が逃げ落ちた道と、甲州へのみちとの追分となります。

左のユンボが入って工事している道が甲州への道、右、ゲートがあり上っている道が檜原への道です。道標がありますね。
右 𦥑木(杵)山 ひのはら
左 さのがわ
ここから市道山〜南谷の笹平か、市道山〜𦥑杵山〜元郷というルートで檜原城です。

如何でしたでしょうか。

八王子城落城時の城代横地監物は、檜原城に逃げ落ち、その後、檜原北谷から小河内峠を越え、多摩川の谷に向かう途中て果てたと言われていますが、成木街道シリーズで訪問した上直竹には、非常に興味深い伝承が残っています。

天正15年1587, 氏照は、三人の子供、姉千代姫10歳、兄氏真7歳、孫氏3歳を、成木の木崎家に預けたというのです。秀吉の天下統一に向けた動きを見て、万一に備えたということだったようです。

その後、既述のように1590年に八王子城は落城しますが、氏照の3人の子供たちは、千代姫は若くして亡くなりましたが、氏真は北小曽木に分家し、孫氏は上直竹に分家して、各々、石灰焼きで生計を立て、名主となっています。

この木崎家、元は氏照の家臣で、1571年に、木崎平次郎が成木に熊野神社を開いてますから、その辺りに、成木に入ったものと思われます。成木で石灰を焼き、その石灰は、八王子城の漆喰に使われていました。石灰を運んだのは今回の鎌倉街道です。

横地監物は、もしかしたら、多摩川を下って青梅から成木に入り、氏照の三人の子どもたちの下へ行こうとしていたのかもしれません。

※参考にさせていただきましたサイト:

https://kamibun.x0.to/

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