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檜原街道南谷、上川乗・人里〜甲州棡原村小伏・日原・猪丸〜上野原宿

檜原街道シリーズ、これまで、

と、来ました。

南谷では、檜原村は武州西多摩郡檜原村、なんですが、以下の道の存在と、特に人里より西ですが、道の険しさから、同じ村内の宿(本宿)やお隣五日市村との結び付きというより他国との結び付きが強かったようだ、という話をしました。

  • 笹平から、市道山、醍醐、恩方を経て八王子。市道山は、檜原村から八王子の市に行く道にある山という意味とも。

  • 柏木野から、三国峠を経て相州佐野川村

  • 上川乗から、浅間峠、栗坂峠を経て甲州棡原村小伏

  • 人里から、日原峠を経て甲州棡原村日原・猪丸

  • 笛吹から、笛吹峠を経て甲州西原村藤尾

  • 数馬から、西原峠を経て甲州西原村原・郷原

さて今回は、この、6つあるルートの内、上川乗〜甲州棡原村小伏、人里〜日原・猪丸への古道をexploreしたいと思います。

この2つのルートも含め、クロモリで行けるルートはありませんが(山サイは可), この2ルートは、甲武トンネルが引き継いだ格好になっていますので甲武トンネルを使って擬似的に。


武蔵五日市駅まで輪行、五日市街道、檜原街道を行き、橘橋丁字路は左、南谷通りに入り、上川乗まで。南秋川橋を渡って武甲国境尾根越えの登坂に入ります。

南秋川橋、猿の集団の中を行きました。

事前の情報だと、最初のヘアピンをクリアすればさほどの勾配ではない、ということでしたが、私の足とクロモリではそんなことはなく、景色を撮る口実で2度程休憩し、、、

やっぱり高いですね、正面の稜線は浅間尾根ですね。古甲州道です。

漸く栗坂トンネル、甲武トンネルです。それらを抜け、展望台で小休止。

昨日の雨のおかげで梅雨だと言うのに空はクリア、富士山もクッキリと見えました。

下って甲州棡原村日原・猪丸です。ここは、人里から日原峠を経て到達する地点です。入口まで行ってみましょう。日原コミュニティセンターから集落に入ります。ここは古道です。

日原本光寺手前まで上り振り返って撮影。写っている家々は全て養蚕やられてたんですね。屋根の上に小さな屋根がありますから。屋根裏はお蚕さんの部屋だったはずです。
先程の写真から南北の道も古道です。味のある石垣と紫陽花に、思わずシャッターを切りました。にしてももの凄い勾配です。
勿論押しで、漸く到着

折り返して日原鎮守日原愛宕神社に向かいますが、この古道は絶景でした。

南の眺望、猪丸の集落、画面ほぼ真ん中の形の良い山は聖武連山ですね。
そして愛宕神社。社記によれば1560年の創建、御神体は本地地蔵。神仏習合ですね。

さて、ここは正に北条の武州・相州と武田の甲州の国境です。

さぞ、厳しい警備体制だったのでは、、、と、思いきや。

ここでは、山梨県内では大変珍しい、一人立ち三匹獅子舞が例大祭で奉納されるとのこと。

一人立ち三匹獅子舞は、多摩地区でよく見られます。檜原では、人里、下川乗など、7つの集落で執り行われています。

武州から甲州へ伝わったのでは???

調べると、一説によれば、1534年頃に、やはり、檜原から伝わったと見られるとのこと。

国境警備は厳重なはずですが、何れにせよ、山梨県で、この一人立ち三匹獅子舞が行われるのは、檜原と接する西原と棡原のみということですから、武甲国境の笹尾根を越えて、檜原から伝わったことは確かでしょう。

早速の、檜原と甲州の交流の痕跡でした。

猪丸の集落に入ります。ここの鷲神社でも、一人立ち三匹獅子舞の奉納が行われています。

見事な杉の鳥居です。

創建年詳らかならずも、祭神は天日鷲命で、麻の栽培が盛んになった頃に祀られたのでは、と、言われています。忌部氏ですね。

お隣、1575年開創の瑞光寺ですが、ここの梵鐘は1719年に、八王子横川の加藤市良右衛門吉次と加藤半六が製作しました。八王子ですから、甲州道中を来たのか、はたまた和田峠経由か、あるいは恩方、醍醐、市道山から檜原の笹平に入り、南谷通りを西へ、人里から日原峠を越えて猪丸へ来たのでしょうか。何れにせよ、これも、武州と甲州の交流の痕跡です。

梵鐘

さて、次は、上川乗から浅間峠、栗坂峠を経て小伏に至るルートの到着地、小伏に行きます。

途中、猪丸字下椿には、1347年勧請と伝わる秋葉社が鎮座しています。

秋葉社、ちょうどこの辺りが上川乗からの道筋と西原及び日原・猪丸からの道筋がぶつかる所です。そこに、1300年前半の神社が鎮座しているということは、この道がその頃から成立していたということでしょうか。

さて、そもそも今回取り上げた2ルートは何に使われていたのか。

一人立ち三匹獅子舞のような民間信仰、習俗が伝わったというのは本日のexploreで分かったことですが、それ以外にはどうでしょうか。

明治に入り中央線が上野原駅まで通じたのは1901年です。一方、五日市駅は1925年。ですから、檜原の人にとっては、五日市よりも上野原の方が便利だったようで、数馬の人も西原峠を越えて西原に出て、現代のK18を東進して行くのではなく、南谷通りを人里まで行き、このルートを使い、上野原まで行っていたようです。

ということで、ここから先は、檜原の人達が上野原に薪や炭、繭などを売りに行き、日用品や酒饅頭などを買い帰路についたルートを行きたいと思います。

しかし、上野原へは2ルートありそうです。

今昔マップより、赤点が日原峠越しルートと浅間峠・栗坂峠ルートがぶつかる所、ここに秋葉社があると先程言いました。黃点が鶴川右岸の道筋、緑点が山間のルートです。

今回は山間のルートを行こうと思います。鶴川右岸ルートは、釣りで何度も走っているのと、、、

今昔マップより、分かりますかね?!, 道筋が変わってるのが。左の1894 - 1915の古地図では、右上から来て武甲国境の笹尾根にぶつかったらそこが浅間峠ですが、国境尾根を少し東へ行き、右(南)に直角に曲がります、ここが栗坂峠ですが、そこから小伏までずっと尾根を下ってますが、右の1928 - 1945では、途中から谷筋へとルートが変わっています。それに伴って、猪丸下椿からの道も、谷筋へと延長していますね。

このルート変更は、上野原へ行くのを便利にする目的があったと思われます。より、直線的に上野原に行けますから。

1928 - 1945に出来た新ルートを最後の民家まで行ってみました。

武甲国境を越え削られた足には地味に辛い棡原トンネルまでの上りをこなし、小伏の集落に入ります。

小伏八幡神社、1575年創建、ここも、一人立ち三匹獅子舞が伝わります。

小伏集落を後にし、ルートからは外れますが、井戸集落の軍刀利神社を訪れます。ここも削られた足にはキツイキツイ。這々の体で漸く一の鳥居に到着です。そこから先は無理でした。

鳥居の奥に道は続いてますが

軍刀利神社は、1049年に、三国山に勧請されたのが始まりとの伝承があります。元は軍茶利夜叉明王社で別当修験大正院ですから、修験ですね。廃仏毀釈で日本武尊を祭神に仕立てたということのようです。

何故寄り道したかですが、この神社は、武州檜原、相州佐野川、甲州棡原の総鎮守だったからです。

今日のテーマは、武州檜原と甲州の交流ですが、この神社は武相甲三国の総鎮守ですから、決定打ですね。

来た道を戻りますが、上ってた時は全く気が付かなかったですが、富士山がキレイに見えていました。

軍刀利神社一の鳥居脇にあったのも浅間大菩薩でしたね。

その後、聖武連山の山裾を巻くようにして鶴川支流黒田川の谷に下りて尾続、向風と進みます。

しかし、難読地名ですね。しょうむれ、おづく、むかぜ、ですよ。触れませんでしたが猪丸は、いまり、です。檜原村南谷の人里から西のエリアとの、難読地名の連続性が見られます。

下りということもあって上野原宿はあっという間。

宿場の様子、天保14年1843の甲州道中宿村大慨帳によれば、東西6町18間余り、家数159, 人数784, 本陣1, 脇本陣2, 旅籠20, 問屋2とのこと。
酒饅頭、マジで美味かったです。
上野原宿本陣跡

そして、牛倉神社です。

創建年月不詳も、和名抄に、古郡の里に幸燈明神、と記され、713年編纂の甲斐風土記残編にも、東古郡幸燈明神との記載がある古社。日本武尊伝承もある。1544年12月、信玄の娘が北条家に輿入する際、ここ牛倉神社で引き渡しがなされました。国境らしいエピソードです。

如何でしたでしょうか。

最後に訪問した牛倉神社は、既述のように古郡幸燈明神と呼ばれていました。この辺りは古郡郷で、ここを治めていたのは横山党古郡氏でした。

横山党ですから、1213年の和田合戦で滅亡しますが、檜原の人里の和田集落には、和田の落人伝説がありますから、今回の、上川乗〜浅間峠〜栗坂峠〜小伏、人里〜日原峠〜日原・猪丸のルートは、和田・横山の郎党達が落ちていった道だったのかもしれませんね。

檜原人里の和田集落


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