檜原街道、北谷
檜原街道シリーズ、前回は、
でした。
武州西多摩郡檜原村
なんですが、風土記で、"最険阻なる山間の地にて人馬の往来も難所多し" と記述された笛吹以西は特に、当時は事実上武州側から西進出来ないということもあるのでしょう、むしろ、甲州との結び付きが強かったと言えます。私はそれを、難読地名の連続性・非連続性で感じたと、前回、記載しました。
今回は北谷です。前回の南谷は件の甲州を始め、八王子、相州など、他所との結び付きが目立ちましたが、北谷はどうでしょうか。
武蔵五日市駅まで輪行、檜原街道を橘橋まで。今回はここを右です。
右折して直ぐ、檜原村鎮守春日神社があります。
今日1社目の春日神社を後にしT205を北上、北秋川とそれに沿うT205が西に進路を変える所に御霊檜原神社があります。ここも古甲州道の再訪となります。
創建、祭神、詳らかならず。1590年の秀吉小田原攻めの際、同時に落城した檜原城の城主平山氏重・氏久親子の霊を祀った、その平山氏の祖である日奉氏の霊を祀った、あるいは、檜原の開祖宿辺少将橘高安の霊を祀ったなど、色々な説が伝えられていますが、定かではないようです。
しかしここには、重層的な檜原村の歴史が見られますね。奈良時代に檜原村を開いたとされる橘高安、平安末期から鎌倉時代に活躍した檜原城主平山季重の子孫であり檜原城最後の城主平山氏重とその嫡男氏久です。先程訪問した春日神社が檜原村の鎮守ですが、こちらも、匹敵する重要な神社だと思われます。
さて、先を行きます。御霊檜原神社が鎮座していた千足の集落から北秋川に沿ってT205を西進、中里、暮沼、八割、白倉と進み、ここに、大嶽神社里宮があります。
日本武尊東征の折、この地で道に迷ったが、狼に道案内され事無きを得た、だから御犬様(狼)を祀っている(狼信仰)という伝承、それと御祭神、元蔵王権現であること、は、武蔵御嶽神社とほぼ同じ社です。
また、武蔵御嶽神社が鎮座する御嶽山頂、奥の院が位置する中嶽、大嶽神社本社(奥の院)が鎮座する大嶽は、近距離で且つ並び立っています。
以上のことから、個人的には、この二社は甞て一体であったろうと思っております。
大嶽神社里宮の参拝を終え、大澤を経て、神戸の集落に入ります。まずは、2つ目の春日神社です。
そして神戸岩です。
神への戸、その神とは、大獄山、御嶽山です。ここも、大嶽山、御嶽山信仰の痕跡ですね。
また、747年、橘高安が大和国吉野山の蔵王権現御神影を移し祀ったという伝承もあります。橘高安、二度目の登場です。
T205に戻りまして、小澤の集落には宝蔵寺があります。御霊檜原神社に続く、平山氏の痕跡であり、一説によれば、橘高安の位牌があるとのこと。橘高安の痕跡でもあるということです。
宝蔵寺を後にし、ここからは初走になりますが、T205を進み、小岩集落に入ります。ここに鎮座する八坂神社は、橘高安が、為定王子を弔う為、創建したと伝わります。
さてこの為定王子ですが、村上天皇の御子の為平親王、その更に御子、つまり、村上天皇の御孫です。安和の変(969)の際、源連に連れられ、ここ檜原村に逃げ落ちてきたという伝承があります。
平安末期、為定王子がお隠れになると、橘高安が、八坂神社を創建しました。尚、橘家は、代々当主は高安を継いでいて、よって平安末期にも橘高安は存在していました。
橘高安、平山氏に続いて、もう一人の檜原のキーマン、為定王子の登場を見て、T205を西進すると、笹久保集落に、貴布禰神社があります。
貴布禰神社自体は、由緒、祭神など、調べても殆ど記事が出てきません。が、ここを訪問した目的はこれでした。
この、現代の我々の目で見るとファニーと言うか、カワイイと言うか、こういった狛狼は、濃度が高い狼信仰の特徴ですね。古甲州道シリーズで訪問した小和田の御嶽神社にも、このような狛狼がありました。
風土記に御嶽社とあり、この狼ですから、ここも、大獄山・御嶽山信仰の痕跡ですね。
先を行きましょう、日向平を経て激坂を上って藤原集落に入ります。ここに、3つ目の春日神社があります。
この狭いエリアに3つ目の春日神社です。春日神社と言えば大和国、大和国と言えば橘高安です。関係があるのでしょうか。あるように思います。
尚、ここから小河内峠を経由して青梅街道の熱海に出る片実線片点線の村道クラスの道が通ってます。
さてこの先ですが、出来れば、古道をクロモリを担ぎ歩きたかったんですが、熊が冬眠し眺望も効く冬枯れの方が良いでしょう。取っておきたいと思います。
時間的に余裕があったので、風張林道まで行ってみました。ここは古道ではありませんが。
足はもう十分満足、ピストンで帰ります。
如何でしたでしょうか。
天気が良くて最高に楽しいサイクリングでした。南谷に比べると車・バイクの走り屋も徒党を組むピチピチサイクリストも少なかったし。
南谷は武州というより甲州で、兜作りの家も多かったですが、北谷は檜原のメインストリートでしたね。開祖橘高安、平山氏、為定王子の痕跡が多く残っていました。
また、北に聳える大獄山への信仰も強かったことが分かりました。
南谷で目立った他所との結び付きという点では、奥多摩との結び付きですね。奥多摩との道は通じていましたから、メインストリートになり得たのかもしれません。