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知らないことが待っている

何かを書きたい。文章としてアウトプットしたい。そういう気持ちはあるのに、上手く言葉としてまとまっていかない。インプットがないからアウトプットできないだけなのかとも考えたが、常にいろんなことは考えてはいるし、いい意味でも悪い意味でも心が動かされる瞬間は多くあって、その都度自分の視点からの感情は持ち合わせているはず。それなのにそれをどう表現したらいいのかが分からない。こういう状態に突然陥ってしまう。

こうなってしまってはアウトプットのしようがない。完全にメンタル便秘状態だ。中には確実に存在しているのに出ようとしてくれないor出し方が分からない。いや、表現があまりに下品だ。寝たいのに眠れない状態の方が近いだろうか。時折発生する真夜中の格闘。明日早いから早く寝たいのに寝落ちる感覚が分からず、夢までの最短ルートを探していると徐々に眠り方が分からなくなり、しまいには焦ってきて気が付いたら朝。あれは最悪だ。思い出しながら書いていても拷問だと感じる。つまり今の状態は拷問なのだ。

思考の中はというと、友達数人とパーティーをして友達が帰った後の散らかった部屋みたいな感じだ。それぞれがそれぞれに散乱していてもうどこから手につけたらいいのかが分からなくて、諦めてそのままの部屋で寝てしまう。そして朝、再度絶望する。そんな状態。
調子がいい時の思考は、どれだけ散らばっていても順序よく片づけることができて、それまで以上に部屋が綺麗になったりする。これまで考えてきたことや、出会ってきた映画のセリフや作品、してきた会話の中に不思議な共通点があったりして、そこを糸口にしてスルスルと思考が紐解けていくのだ。
その時の快感というのは何にも変え難いし、ノーベル賞ものだ。それなのに今はもう冷蔵庫と自室とトイレを行ったり来たりするだけで勉強した気になってるテスト期間中の高校生のようだ。

どうしたものだろうか…などと思いのまま書いていたら気付けば800字に到達していた。やっぱり正直な思いをちゃんと文章でも会話でもアウトプットすることって大切なんだと思う。

誰かに評価されたい、魅力的に思わせたい、正しいことだと思われたい、そういう承認欲求からSNS上では誰かに気に入られるような発言や投稿を心がけ、自分の投稿や作品を評価されたものだけを残してあたかも全部が評価されているように見せることもできる。

でも僕はやっぱり間違いや失敗から学んでアップデートしていく人が好きなのだ。確かに現代は過去や一瞬の言葉の誤りだけでネットの社会からキャンセルされ、私刑という最悪な文化が育ち、社会からも自分の立場を失うような社会になってしまった。そういう社会にしてしまった。選んだのだ。だから間違えたら終わり、失敗したら終わり、誰かに認めてもらえなかったら終わりという考えがどうしても人間の潜在的な意識の中に刷り込まれてしまっている。本当に最悪だよね。うんざりだよね。

これまでそういった「最悪な出来事や人の機微も社会の一部だから目を背けずにちゃんと見ていかないと社会から取り残される」と感じて向き合って生きてきた。

でもこの時代に生きていて思う。もうそんなことしなくていいよ。逃げてもいい。いや、逃げるとは違う。自分の場所を選べばいい。自分の生きる場所はここだと決めて好きな場所で生きたらいい。世界は広い。"世界は広い"と自分の頭で想像しているよりもずっとずっと本当に広い。そしてずっとおもしろい。

あの島の花の色、フライパンの上の料理、あの国で踊るステップ、誰かを思い作られた知らない言語の歌…。僕らはずっと無知で、ずっと幼稚で寂しい生き物なのだから。知らないことに出会おう、知らないことに試されてみよう。悲しみは尽きないし喜びも尽きない、そして喜びは尽きないし、悲しみも尽きない。それでも知った気にならなければ僕らの絶望はきっと癒える。

生きて死ぬまでの一本の糸をどう歩くかは自分次第。
自分を理由に生きよう、
自分を理由に死ぬまでは。

え、待って何の話ですか?


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