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『怪物』

『怪物』という映画を見てきた。僕が日本で最も好きな監督、脚本家である是枝裕和と坂元裕二の作品。ずっと公開を楽しみに待っていた。公開して間も無く賛否両論で語られ、それを見ていたので緊張と期待が合わさったまま劇場に向かった。

様々な視点を通して日常の出来事を繰り返すことで、浮かび上がってくるものの複雑さを映す構成にはガス・ヴァン・サントの『エレファント』や、ムラーリ・K・タルリの『明日、君がいない』を思い出しながら、過去の作品や出来事の価値観や捉え方も時代と共に変わっていくのかもしれないと思わせられた。
坂元裕二の脚本に出てくる女性はいつもクリーニング屋で働いてるのはどうしてだろう。

「怪物だーれだ」予告編で印象的に響く少年の声が上手いエッセンスになっていた。気づいた時には始めている"怪物探し"がこの作品を観るということのすべてなのだ。大きく開いた巨大な穴を囲って僕らの日常は歪に波形が広がっていく。期待していた以上に心に穴を開ける作品だった。

できれば「クィアパルム賞」じゃないほうが良かった。この人間たちの孤独と喪失と後悔をジャンル分けなんてしないでほしかった。




ここからは僕の話をする。今まであまり他人にしたことがない自分の話。本当に些細な話だけど。きっと誰かの話でもあると思う。

僕は中学生まで自分が男性であるのか、好きな人の対象が女性であるかが分からなかった。身体が男であることで、どうして自分が男であるということが分かるのか分からなかった。考えたことがなかったのではなく、どうしても分からなかったのだ。どうして女性のことが好きでいなければならないのかも含めて理解できなかった。だから毎日のように祈ってた。「女の子のことが好きでありますように」と。

それは幼少期の頃から周りの大人の言葉をよく聞いていたからだ。小さい頃にシルバニアファミリーが欲しいとお願いしたら、「それは女の子が遊ぶものだからダメ」と言われたこと。お祭りでピンク色の光るおもちゃが欲しいと言ったら店の人に男の子は青と言われてショックだったこと。戦隊モノや車や電車に興味が持てずに女の子とおままごとがやりたかったのにどちらにも混ざれずにいたこと。肩まで髪を伸ばしてたら「君は男の子なの?女の子なの?」と学校の子に言われたこと。男性アイドルのポスターを貼りたいと言ったら「男の子が好きなの?」と半笑いで言われたこと。「男子なんだから着替えなんかどこでもいいでしょ」と外でも着替えをしなくてはいけないことが嫌だったこと。「芸能人のゲイ疑惑」の芸能ニュースで見て「ホモかよ気持ち悪い」と言ってる大人の声をたくさん聞いたこと。テレビでオネエタレントと呼ばれる人たちが男性芸人にキスして気持ち悪がられていたこと。幼少期に目にした耳にした様々なことが呪いのように降り積もって、自分が"普通"でなくなることが毎日怖くて不安だった。毎日寝る前に祈っていた、"普通"でありますようにと。頭の中で理由をつけて、探して否定して、自分自身を証明し続けた。

そして誰よりも男らしくあるように振る舞った。いつからか自分のことを「俺」と呼ぶようになった。相手のことを「お前」と呼ぶようになった。髪も親にお願いして短く切った。かわいい色のTシャツを全て捨てて、スポーツブランドのTシャツを買うように親にお願いした。なるべくみんなが着ているものと同じ色になるようにした。周りと同じようなものを見て、周りと同じような喋り方や歩き方を真似した。運動部に入り、下ネタについていけるよう、集団の中ではみ出さないように自分を演出した。

こうして着飾ることでいつからか集団の中で違和感なく過ごせるようになった。途中で好きな女の子ができた。そこで自分が異性愛者であることを理解した。理解したのか、そう思いこんだのかは分からないが正直なところすごく嬉しかった。

なぜだろう。なぜ異性愛者だと嬉しいのだろう。そんな疑問は当時浮かばなかった。それは周りと同じでいられるからだ。下ネタで周りと上手く笑えるからだ。好きな女子の話で盛り上がれるからだ。誰からも気持ち悪がられなくて済むからだ。おかしな話だ。こんなのは本当におかしな話だ。

高校生になって、クラスメイトからちょっとした冗談のつもりで「お前ホモだろキショ」と言われたことがある。そんなこと言われても聞き流せたはずだった。でも咄嗟に静かに相手の制服のワイシャツの胸ぐらを掴んでいた。その時に感じた怒りが何だったのかは当時分からなかった。「あんな奴らと一緒にするな」という怒りだったのか「もう他人を苦しめるな」という怒りだったのか。そこから彼は僕に向かって言うことはなくなった。

今ではその怒りの矛先が分かる。でも怒りで何かを変えたいとは思えない。ただ考えていたい、ただ見出していたい。自分も含めてきっと誰もが正しさの中で間違えている。間違いながらここにいる。それを噛み締めなくてはいけない。彼らもきっとそうだ。
今でもふと考える。今の自分が考えること、今の自分が感じる気持ちはこれまでの自分が自分で演出した感性であり、演出した気持ちなのではないかと。自分が何者であるのか、誰かが言語化して守ってくれたらいいのにと。昔の自分のことを思いながら今を生きる誰かのことを同時に思っている。誰ももう自分を否定しなくていい、呪いの言葉を耳にしなくていい。誰もが自分を信じて生きていい。

映画『怪物』を観ていて、そんな自分の中にある小さなことを思い出していた。何度かnoteに書こうと思ってやめていたことを思い出して書いている。幸せとはなんだろうか。それぞれの人の心の中にいる小さいそれぞれの形をした"怪物"。それはきっと自分の中にもいて、寄り添ったり吠えたり、苦しめたりする。言葉にならない、形にならない不協和音は響き、今日も黒ひげ危機一発のように剣が一つずつ樽に刺され続ける。

どんな感想がそこにあったとしても、まだこの社会にはこの映画が必要だということ。それが何よりも悲しい。正しさや確信なんてものはない。真実や絶対的な価値なんてものはない。今日も迷って、迷って、漂っている。人間を生きることは複雑だと毎日感じている。ネットの世界でも、現実の社会でもどこにいても複雑だ。分かりやすい答えなんてない。言葉を選ばなければ、めんどくさくて厄介だ。悲しいほどに。自分自身の中にいる無知で無邪気な加害性とどれだけ向き合っても向き合いきれないほどだ。でもそれでも、この世界を生きていく価値があると思いたい。生まれ変わりがあるのなら僕は歌なんて歌わないし、誰かのことを愛することもしないだろう。

「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」

僕は今日もこの気持ちを胸に抱えて生きている。彼や彼女たち、名前のない孤独のために生きていきたい。今の僕はそう思う。

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