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“役に立つモノゴト至上主義”を考える 【後編】

 どうもこんにちは。今日もひとりごとです。前回は,いまは役に立たなくても,将来どこかで役に立つ可能性があるから,役に立たない(役に立つ見込みがない)ものでも幅広くやることが重要っぽい,というお話をしました。(下記リンク)

今回の【後編】では,私の仕事(塾・予備校と大学受験)の界隈や学問的興味の領域の周辺で感じることをベースに,いまは役に立ちそうだが,それが将来的にずっと役に立つとは限らないから,役に立つことを意識するだけでは片手落ちになるよね,というようなお話をします。

「〇〇は今は要らないと思うかもしれないけど,きっと将来役に立つから!」というありがちなアドバイス

 ここ数年,私は予備校で仕事をしているので,いくら学力低めの生徒であったとしても,「受験教科について役に立たないからやる意味が感じられない」とか言ってくる者はほとんど見かけません。曲がりなりにも受験生なので,受験に使う科目として認識し,ある意味従順にその教科の学習を進めているようです。しかし,私がかつて学部時代や大学院時代にアルバイトをしていた学習塾では,「数学ってやっぱ今後人生で使わなくないっすか?受験でしか使わないなんて意味ないっすよね」とかいう中学生がいました(以下,生徒Aと呼びます)。教育業界にいらっしゃる方であれば,あるある話として共感いただけるのではないかと思います。そういうAくんに対して,当時の職場の社員は,「いやいや,Aくんはゲームが好きで将来ゲームクリエイターになりたいんでしょ?そういうゲーム作るときのプログラムって,めちゃめちゃ数学が関係してるんだよ〜,数学が役に立つから,今のうちからコツコツ勉強しておこうよ!」と答えていました。

 また,別の中学生(Bくん)は,数学における途中計算をたいそう面倒くさがり,「え〜もう電卓とか携帯(当時はまだスマホ普及途上だったのでガラケー)とかあるならそれで打ち込んで計算していいじゃ〜ん,なんでわざわざ筆算しないといけないの〜?メンドイ〜」としばしば口にしていました。これに対して社員は「将来お金を稼ぐようになったらお金の計算をしないといけない場面って多くなるし,そういうときに悪い人に騙されないように(詐欺に遭わないように)するのに役立つから,今はいらないと思うかもしれないけどとにかくやっておこうよ!」とか応答していました。当時の私は,うんうん確かにそうだよな,と思っていました。というか,数学(あるいは計算)が苦手で仕方なくて,常日頃から逃げたいと思っている生徒に対しては,そういう答えしかできないだろうな…と感じていました。今でも,生徒の学年や学力や家庭環境によっては,その答えが相対的に正しいのだと思います。
(余談ですが,「漢字は覚えなくてもスマホで自動で変換してくれるから,少なくとも読めればなんとかなりますよね?書けなくてもよくないすか?」という生徒に対しては,別の社員が「いや,私は大学の卒論で手書き○万字書いたよ!そんなのいちいち辞書引いたりスマホで調べたりしてたらそっちの方が面倒くさいじゃん,だから漢字書けるのも重要なんだよ!!」みたいに答えてて,そこに関しては当時の自分でも圧倒的違和感を感じていました笑)

(これはドラちゃんにも叱責されるレベル…)

 しかし,世の中の変化のスピードは指数関数的に加速しています。今,プログラミングが(ゲーム制作にかかわらず)多方面で必要とされているからと言って,それが10年後に必要とされるかどうかなんてわからないのです。例として取り上げたゲーム制作だって,イラストレーターから音響制作,ストーリーのプロデュースなど多岐にわたるし,根幹のプログラミングだって数学ができなくても問題なかったりします。(なんらかの苦労はするかもしれませんが…)。だから,ゲームクリエイターになりたいAくんに対して「数学は役に立つから絶対必要」と言うのは妥当でない可能性があります。同様に,筆算が面倒なBくんに対して「お金の計算に役立つから数学を学びなさい」と言うのも適切だとは言い切れないのです。これに関しては既に音声AI技術と端末が十分に進歩し,Siri(Apple)やAlexa(Amazon)に,端末に触れることなく音声指示のみで計算してもらうことができますよね。

 もちろん,プログラミング的な思考(条件分岐,繰り返し…)の重要性は無視できず,論理的な思考力に直結するので,そういう根幹部分については時代が変わっても普遍的に“役立つ”と言っていいと思います。筆算についても,それができることによるメリットは(例えば暗算能力の向上につながり,それが数的感覚を養い,諸々のデータの妥当性について即座に検証できる?等),少なくないと思われます。実際,暗算できなくていちいちSiriやAlexaに頼る有機物にはなりたくないですよね。しかし,例えば情報関連産業従事者「全員」が特定のプログラミング言語を自在に操れる必要があるかといったらそうではないように,全員が必ず数学できるようになっている必要もないのではないか,と思うのです。技術革新や時代の変化にともなって,また新たなスキルが必要になった時に,そっちに飛び込んでいけるかどうかの方が,おそらく100倍大事なんだと思います。

 つまり,(前回の記事と大きく関連することですが,)大人が子どもに対して言う「〇〇は将来役に立つから大事」という台詞は,将来役に立つかどうかを今のモノサシで測っているだけで,希望的観測に過ぎません。繰り返しになりますが,仮にそれがいま役立つ知識や技能であったとしても(役に立たないものであったとしても),将来それが役に立つかなんて,誰もわからないのです。いわゆる“読み書き算盤”や“思考力”のような普遍的な能力は,おそらく時代を超えても通用するので,比較的“役に立つ”と思いますが,トレンド変化周期が短くなってきており,技術革新や文化変容のスピードが速くなっている現代においては,もしかするとそういう普遍的な能力も,無用の長物になるのかもしれません。やや大袈裟な話になってしまいましたが,結局,〇〇の役に立つから学ぶ,というモチベーションは,生徒の自発的なものであれば一向に構いませんが,他者(親や教師などの年長者)が生徒に押し付けるようなものであってはならないと思うのです。それが将来役に立たないかもしれず,無責任だから,です。

そもそも役に立つかどうかは,それを使う本人次第

 また,“役に立つから”という動機で何かを学んだり,何かを得たりしていると,将来結局役に立たなかった時にそれを無用の長物たらしめてしまうという点で,あまり望ましいことではないでしょう。例えば,料理の役に立つからと言って,大学生や新社会人が単身生活スタートの時に親からティファール(T-FAL)のフライパンや鍋をもらっても,その後自炊をしないような生活を送っていれば,結局宝の持ち腐れであり,無用の長物ですよね。同様に,便利だからという理由でお年寄りにパソコンを与えても,(余程適応力があるか新しいもの好きの方でない限りは)使いこなせないしそもそも興味がなかったりするから無駄です。

 役に立つからと言って他者が学びを押し付けたとして,(それが実際に普遍的に価値のあるものだったとしても,)本人にそれを活用する意思がなければ,結局要らないわけです。本人が「要らない」と思ってしまったら,結局要らないものに他なりません。ただの善意の押し付けでしかないわけです。(まあ,多くの大人は大人になってから,「ああやっぱりあの教科はしっかりじっくり学んでおけばよかったな…」なんていう価値に気づくわけですが…)。

自分で気づかなくても,“役に立ってしまう”こともある

 また,自分が身につけているなんらかのスキルが,何かの役に立つという自覚がなくても,結果的に周囲に必要とされ,役に立ってしまうこともあります。情報が瞬時に空間を超えて行き交う時代で,SNSを介してあらゆる価値が交換されています。“スキルのフリマ”と称したアプリやプラットフォームもあり,誰かの“できること”が,別の誰かの“必要なこと”として消費される世の中です。だから,短絡的に“役に立つ”ことを意識しなくても,まず自分の好きなことや興味のあることを続けることで,結果的にそれが評価されることも大いにありうるわけです。自分が“誰かの何かの役に立つ”と思っていることなんて実は思ったよりたかが知れているし,半ば自己満足出会ったりもします。自分でそれを判断するのは尚早で,多くの他者に評価してもらって初めてそれが“役に立つ”かどうか明らかになります。だから,「自分で役に立たないと思ったからやらない」とか「自分が役に立つと思うことを自分の満足のいくまで究めてから世に出そう」という判断は無意味なのではないか,と私は思うのです。

 もちろん,自分の“役に立つと思うこと”を究め,自分の専門性を自分で決めることも重要だと思います。ただ,最終的に社会(ないしは周囲)に必要とされるかどうかは社会が決めるわけで,そうするとやっぱり,まずは自分の“やりたいこと”を主軸に据えないと,最終的にはただ周囲に振り回されるだけの人生になってしまうような気がします。やりたいことをやるのが結局強いのだと,いまの私は強く思っています。

学ぶor得ることの本質は,”学びたいから”学ぶのであって,将来のために学ぶのではない

 やりたいことをやるのが重要だというお話をしましたが,結局中等教育(とくに高校)における文理選択やその後の進路選択においても,同様のことが言えると思います。「親から『理系の方が就職で有利』と言われたから,将来を考えてとりあえず理系にします」とか,「情報系は今後役に立つと担任に言われたから,やりたいことはないけどとりあえず将来のために工学部に行きます」とかいうのは,自律性の無さが見え見えだし,自分の人生を自分で決めることができない典型のパターンなのではないかと思っています。予備校では現に,そういう生徒が一定数います。例えば「情報系の学部に入りたい」と言っている生徒によくよく話を聞くと,「親に言われたから」というオチになることがしばしばあります。なんなら「親に言われたから予備校に入りました」と言って,そもそも本人に大学受験の当事者意識が皆無な生徒もいるくらいです。(そういう生徒に関する論考は,また機会を改めて…)

 もちろん,自分一人では決められないから,親をはじめとする年長者の意見を聞くのは非常に有用なことです。彼らの,自身の経験を踏まえリスクも考慮してもたらされるアドバイスは,少なくとも自分一人で考えて導き出される結論よりも信頼性が高いです。また,高々10代後半では,やりたいことや将来像が定まっていないケースも当然多いと思われます。ゆえに,消極的な選択肢として“役に立ちそうなこと”とか“将来のためになること”を学べるような進路を選ぶのは当然アリだと思います。ですが,そのようにして他人に依存した選択や消極的な選択の度合いが行きすぎてしまうと,結局その後,能動的な学びができるかどうかという点において差が出てくると思われます。

 自分でやりたいと思ったことは長続きするし,自分で考えて主体的に動けるし,かつ自分で選んだのだから自分の今や将来についても責任を持てるはずです。しかし,他人の意向に従って(ないしは指示されて)やっていることは,途中でやりたくなくなったら「やめたい」という気持ちにつながりやすいし,どうしも受動的になってしまうし,その後もずっと「誰かに何か言われるまで何もしなくていいや…」的な思考に陥りがちになるでしょう。自分の人生について自分で決められない大人は,生き方の自由度が増大しているいまの時代を生きづらいことだと思います。

知りたいから知る,欲しいから入手する。シンプルですが,それが本質なのではないでしょうか。変に理由や動機をこじつけて,“〇〇のために大学に入る”とかをやっていると,結局自己矛盾に苦しむだけです。私自身も,かつては“高校の理科教諭になるために大学に入る”意識が少なからずあり,そういうふうにして大学選びをしていた時期もあります。でも教育学部や教員養成課程における学びにそれほど魅力を感じず,また同時に理科教諭になるうえで最も需要の低い「地学」に強い興味を持っていたので,結局は学びたいことを優先し,大学に入りました。当時思い描いていた将来像とは遠からず,今は予備校で仕事をしていますが,そこまでの過程はなかなか希少価値で,学びたいことを学んできたから今があるな,と自らを振り返って強く感じます。地学や地理をやってきたからこそ見える景色があり,私はそれが今とても幸せに思っています。(もちろん,そこまでに多くの先生や同級生・先輩後輩にお世話になり,本来想定されたルートを逸れてしまったことに申し訳なさを感じ,いつも頭が上がらない限りなのですが…)

 話を戻しますが,(私の事例は全く参考になりませんが,とはいえ)“学びたいから学ぶ”ことをしてきた人は,おそらくその後必要に応じて新しいアイディアを生産するチャンスが増えて,結果的に(そういう新しい発想が必要とされる世の中であれば)“役に立つ”はずです。今の時代,そしておそらくこれからの時代も,まさにそういう世の中です。やりたいことをやる人が,結果的にどこかで誰かの役に立つ。これはもっと広く強調され,認識されてもいいのではないか,と思います。だから,“役に立つモノゴト至上主義”的な(多くの人に潜在する)思考は,一度取っ払われたいな,と思う限りなのです。

 以上が,今回の記事で私が言いたかったことです。いろいろ考えていたことを文字に起こすことができて,たいそうスッキリしました。しかし,そこまで考えて,ふと気付きました。あれ,なんかこういう話って大学院時代もずっと考えてモヤモヤしていたなぁ…。ああ,そうだ。

この議論…地理や地学の普及推進における議論に似ている

 多くの方がそう思われると思いますが,地理や地学はいわゆる“マイナー教科”です。“マイナー教科”,というと,その界隈の方々からお叱りを受けそうですが,とはいえ確かに履修者数は少ないです。また,仮に履修できる環境にあったとしても,現行の大学入試環境下では,文系だったら日本史や世界史をやっておけば圧倒的に多くの学部を受験できますが,地理だとそれがかなり限られてしまう(例えば慶應だと商学部以外の文系学部では地理を使えない)し,理系だったら物理や化学が使える大学が多く,次点で(私大医学部や生命科学系学部であれば)生物となり,地学が使えるのは国公立大学の理学部やごく一部の私立大のみとなるため,事実上,受験の選択肢の制限につながってしまい,受験科目としての履修選択は敬遠されがちです。(私は化学と地学が好きだったし,幸運なことに地学が開講される高校に行っていたし,かつ地球科学系を受験するつもりだったので,上記の制約を受けず化学と地学の2科目を選択したかったのですが,なんと当時のセンター試験では化学と地学が同時限に実施されていたこともあり,泣く泣く地学履修を諦めた経験があります…)。

 なお,2022年度から地理は「地理総合」として必修化されることが決まっているので,少なくとも学習指導要領上は“マイナー教科”ではなくなるようです。(それが大学入試環境にどこまで反映されるかというと,未知数ではありますが…)

 地理のこうした動きは,一重に,地理教育界隈(アウトリーチ含む)の研究者や教員が地道に必修化の必要性を訴えてきたからだと思われます。そのご尽力は計り知れないものと思います。私はその中の人ではありませんでしたが,とはいえ大学院在籍時には,学会や学術誌でよくそういったアウトリーチの話をしている研究者の話を耳にしていました。趣旨としては,「地理は社会のあらゆるところで役に立っている」「だからみんなが地理を学ぶことがいいことだ」という点に集約されるでしょう。それは紛れもない事実であり,もしもっと多くの人が地理の理解や関心があれば,もう少しいい世の中になるのではないかな…と,今でももどかしく思うことがあります。防災や異文化理解にまつわることについては,とりわけそれが顕著です。

 でも,私はそれに対して思ったのです。“役に立つから学ぶ”というのは,やはり学問における問題意識を矮小化させかねないのです。“役に立つから学ぶ”を地でいくようになると,そのうち“役に立たないから学ばない”に繋がるのは時間の問題です(【前編】の記事に深く関連)。もちろん,これは理学と工学のスタンス(意識)の違いでもあると思っていて,中には工学のスタンスで地理ないしは地理学をやっている方も大勢いらっしゃるので,そういう観点からは全く問題ないことです。ただ,理学のほうでやってきた私からすると,やはり“役に立つかどうか”よりもまず“学問的関心”が先にくるのが望ましいことだなと思うし,そういう意識でやるからこそ,私自身は地理が大好きだ,ということもあります。(うまくいえませんが,私にとって,工学的な地理は“ビジネス”であって,理学的な地理は“趣味”という感じでしょうか…)

 私自身,現在は大学院在籍時よりも地理から離れてしまった感がありますが,今でも地理が好きで,物事を空間的に比較検討したり,幅広い分野にまたがる事象から相対的に正しいことを見出せる,みたいな性格が気に入っています。でも,役に立つことばかりを意識しているとだんだんつまらなくなってきます。役に立つからやる,のではなく,面白いから,楽しいからやる。そんな地理と今後も付き合って行きたいと思うし,あらゆるモノゴトにおいても同様に,役に立つことばかりを意識せずに,面白いから,楽しいからやるような意識が尊重されるといいなあ,と思うばかりです。

 地理や地学を例に挙げて書き連ねましたが,おそらくこういうことはいろいろな分野で存在していると思います。もしお読みになった方で,浅学な私に何かコメントをいただけるようでしたら,大変嬉しいです。それではまた。

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