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「応援されて当たり前」の大学受験教育の違和感

 大学入学共通テストまで,あと3日。受験生の方々は,直前演習とか直前点検みたいな時期で追い込まれている頃かと思います。この時期になると,受験業界は皆,揃って「合格祈願!」とか「必勝!」とか謳って,受験生を鼓舞してきます。「最後まで諦めるな!」とか「自分を信じて進め!」とか,今までにn万回聞いてきたようなセリフでもって鼓舞された受験生は,ラストスパートをかけて勉強に臨み,本番に臨み,ある者は喜び浮かれ,そしてある者は絶望するのです。

 受験業界にいる大人は,毎年のようにこの光景を目の当たりにしているので,良くも悪くも慣れてしまいます。私自身は,学生時代の塾講師の仕事から数えると10年以上“受験生を応援”していることになるので,これが仕事だと割り切って向き合えているし,各生徒への応援の声かけも板についてきた気がします。毎年,熱意をもって指導しているが,年々冷静さが増してきた,というのが適切なのかもしれません。

 そんな応援ムード一色のなかで,昨年度に担当していた生徒(ここではAくんと称しましょう)とこんなやり取りをしたのを,ふと思い出しました。確か8月とか9月頃だった気がします。

「落ちても知らないとか,ありえなくないっすか?」と,平然と異議申し立てる生徒

Aくん:「あの,○曜△限のB先生,ちょっとありえないんですけど,講師変えてもらうこととかってできないっすかね…?」

:「え?ありえないって,どうした?なんか名指しで注意されたとか叱られたりしたの???」

Aくん:「いや,注意されたっていうより…『別に俺はお前らが大学に受かろうが落ちようが知ったこっちゃないから。受かりたかったらしっかり(自分で考えて)勉強しろ』って授業中に言われたんです。落ちても知らないとか,あり得なくないっすか?

:「うん,そうか…。まあ嫌な思いをしたのは事実なんだろうけど…でもB先生は大学に受かるための姿勢として必要なことを言ってくれたんじゃない?それを生かすかどうかは自分次第だよ?」

Aくん:「そうですけど…。でも頑張ってる生徒を応援してくれないってやばくないですか?それがイヤで授業に集中できなくて。変えられたらいいな,と思ったんです」

:「まあ実害が出てるのなら,取り合ってもらえるかもしれないよね。受付で相談してみるといいかもね…」

 みなさんは,どう思われるでしょうか。やっぱり塾講師や予備校講師は生徒想いでなければならないとか,生徒の合格を第一に考える講師こそ一流だとか,講師たるもの生徒のやる気を出させてナンボだとか,思われるでしょうか。確かに,多くの生徒の支持を集め,大手予備校でもトップレベルの人気講師は,やはり話術に秀でていて生徒のやる気を出させるのも上手いし,(アプローチこそ様々だが)生徒の合格を第一に考えていると思われます。私自身も,派手なアピールこそしませんが,本質的に今目の前にいる生徒にとっていちばん重要なことは何なのかを常に意識しながら,生徒のためになることを提供し続けています。そう,(一部のクビ待ち退廃的講師を除けば)大手であれ個人塾であれ,その部分は共通でしょう。

 ただ,問題は,そのアプローチが多様であるが故にミスマッチおよびミスリードが生じてしまうこと,そしてそもそも「応援されて当たり前」の風潮が形成されていることなのだと思います。どういうことか。

生徒の成績を上げる講師2タイプと,それぞれのアプローチ

 おそらく多くの塾講師や予備校講師は,ある生徒を第一志望に合格させてあげたい,と思ったとき,まず当人の実力とその大学のレベルとのギャップを見極め,そこから逆算して授業内容を設定します。これは個別指導に限らず,集団指導でも「入塾テスト」と「レベル別クラス振り分け」によってなされています。実際に授業が始まると,要点を整理した解説と演習で,生徒はわからなかったところがわかるようになります。ただ,それだけでは学力は上がらない。授業を受けただけでは問題が解けるようにならないので,必然的に自主学習が重要になってくる。

 ここで,講師によってアプローチが分かれてきます。具体的には,
① 「黙って俺についてこい」タイプ
② 「必要なことは自分で見極めろ」タイプ

の2タイプに大別されるでしょう。

 前者()は,主として低学力層向けの授業に多いタイプです。「そもそも勉強って何をしたらいいの?」という生徒に対しては,手取り足取りサポートが欠かせない。だから,全てのステップを丁寧に指導して,「俺の言ったこと,俺の出した宿題だけやっていれば大丈夫だ,心配するな」というスタンスで授業を進めます。よく言えば面倒見が良く,悪く言えば強制的で息苦しい,といったところでしょう。受験生を大袈裟に鼓舞したり,熱い言葉と身振り手振りで応援したりする講師も,このタイプに多い気がします。

 一方,後者()は,逆に高学力層向けの授業で比較的支持されやすいタイプです。既に高校で諸々学んできて自分なりの勉強スタイルができているが,どこかに穴があって予備校で授業を受けているような生徒は,改めてアレやれコレやれと言われてもウザいし逆効果だったりする。だから,「俺は理解のきっかけを提供するだけで,その後理解を深めるのは自分の演習にかかっているよ,そういう自己分析こそが大学合格に必要だよ」というスタンスで授業を進めます。ややもすれば放任主義と受け取られることもありそうです。

 私は,どちらかというと後者()の意識が強いです。そもそも大学(高等教育機関)とはそういうものであって,学びの場やきっかけが提供されているだけで,そこで実際に学ぶかどうかは学生次第なのです。前者()のように“コレだけやっておけば大丈夫!”という箱庭の中で成長させると,行き着く先は「じゃあコレは必要ないからやらなくていいや〜」という独善的で身勝手な取捨選択や,「先生,コレって必要ですか?」という取捨選択判断の極度な他人依存なのです。大学も経営がかかっているから,(特に人気の低い大学を中心に)年々お客様商売の色彩が強まっていて,まあそういう学生も取りこぼさずに4年間“お預かり”するビジネスなのだとすれば,それでもいいのかもしれませんし,いわば予備校も大学もwin-winなのかもしれないです。さらには,自分で考えて発案や異議申し立てをするような若者ではなく,組織に言われた通りに動く労働力が確保できるので,前近代的な日本企業もグルになってハッピーなのかもしれませんね。

 でも,(繰り返しになりますが)それは本来の大学のあるべき姿ではない。自分で考えて行動して,自主的に学ぶ場であるはずで,それができない者は4年間の社会人準備のための課金ゲーになってしまう。応援されないと頑張れないようなひ弱さでは大学で学ぶことなんてできない。だから私は,予備校に在籍する生徒にも,大前提として自分で考え,自分に必要なことは自分で見極める意識を持って歩んでね,というふうに伝えています。そして,前述のエピソードに登場したB先生も,おそらくそういう文脈で「お前らが受かろうが落ちようが知ったこっちゃない」と話していたのだと思われます。問題は,この前提意識が,うまく生徒に伝わっていなかったという点です。

 おそらく,Aくんは,相対的に学力も低かったためか,のタイプで手取り足取り導いてくれる授業に慣れ親しんでいたし,それこそが予備校講師のあるべき姿だと思っていたのでしょう。そう,予備校にいる大人は誰もが,受験生である自分を応援してくれて当たり前だと思っていたに違いありません。応援されて当たり前だと思っていたところに,「落ちても知らん」と言われたら,そりゃ驚くし,もしかすると崖から突き落とされたようなショックを受けたのかもしれませんよね。

なぜ「応援されて当たり前」だと思ってしまっているのか?

 塾講師や予備校講師は,大学受験で合格を目指す生徒の指導に対する一定の報酬を頂戴して生計を立てています。だから受験で多くの生徒を合格させれば(公式/非公式に関わらず)評価が上がるし,仮に量的な合格実績が伴わなくとも,質的な実績,すなわち生徒や保護者の満足度が高ければ,講師は評価されます。そうすると,必然的に多くの講師は,「生徒のためを思って〇〇している」といったアピールをします。直接的であれ間接的であれ,あるいは意識的であれ無意識的であれ,それが結局は自らの評価につながるので,自然と生徒を全力で応援する姿勢がついてきます。私自身も,この10年の間に,無意識的に生徒を応援していたし,講師たるものそれが当たり前だと思っていました。これは,大学受験に限らず,中学受験や高校受験の塾でも同様でしょう。

 別にそれは,その文脈においては誰も損しません。応援されて嬉しくないとかテンション下がるとかいう天邪鬼な生徒なんてほとんどいないだろうし,応援して生徒がやる気出して合格を掴み取ってくれるなら講師も嬉しい。みんなハッピーです。ただ,それが当たり前になってしまっていると,(前述のAくんのように)そうでない環境ないしは大人を否定するようになったり,本当に自分のためになるような示唆的なアドバイスがあった場合にもそれを素直に受け取れなくなったりする,これこそが問題だと思うのです。もう少しシンプルに言えば,打たれ弱い“もやしっ子”が量産されてしまうことが問題だということです。

 そもそも,縁もゆかりもなかった大人が,揃いも揃って皆,自分のことを応援してくれるなんていう環境は異常です。所詮は金をもらっているから応援しているし,合格実績が上がると評価が上がるから応援しているようなものです。もちろん,講師が皆そうであると言いたいわけではありません。ただ,受験産業の構図を客観的に見ると,そうなっているのです。

 十代後半,特に(成人年齢引き下げにより)成人を迎える真っ只中にいる高校3年生や高卒生は,その構図をしっかりと見たうえで,予備校の提供する教育リソースを十分に活用してほしい。そのくらいのことはできるはずですし,高校までの人間関係でより利己的な連中と出会ってきていないわけがないので,それよりソフトな予備校の環境で大人が応援してくれることの意味を考えたほうがいい。おそらく,Aくんのような生徒は(定かではありませんが)中学受験からそういう塾や家庭教師に絶えず面倒を見てもらってきたために,大人が手取り足取り面倒を見て応援してくれるのが当たり前のまま,18歳になってしまったのだと思われます。それは,本人だけでなく,保護者もろとも,そうなってしまっているのでしょう。

 ただ,その意識のままでは,当然ですが一般的な社会組織では仕事ができない。そうなると,大学受験を通じて,応援されなくても自らの意思で勉強を継続し,成し遂げることの重要性こそ,予備校が生徒に伝えるべきことだとすら思えてきますよね。好きで勉強するもよし,義務感で勉強するもよし。どんなモチベーションであれ,他責でなく自責で勉強を継続できる力こそ,現代で必要とされる能力です。それを予備校がサポートしていた。

 元来,予備校とはそういう場所だった気もしています。(もちろん30歳の若造が,昔の予備校について知るところには限りがあるので,あくまで先人の話を総合して解釈しているだけですが…)。意志あるところに道は拓ける,とばかりに,難解な大学入試問題に対して,大学教員あるいは研究者の卵が講師として集い,理解の切り口やきっかけを生徒に提供する。予備校は大学側から降りてきた教育組織であって,学びたい,学ばせてくれという意志のない生徒は当然その価値を享受できない。予備校で成長し大学合格の力をつければ,必然的に大学での学びもうまく行くし,その間には一切のギャップがなかった。

 でも今は,むしろ逆で,予備校は中学や高校側からの延長で存在している色彩が強くありませんか?駿台でさえ「合格まで,手を離さない。」と言ってしまう時代です。最後まで一緒にリードして歩いてあげるよ,という姿勢は,少なくとも私が通っていた12年前くらいには見られなかったし(私はその雰囲気が好きで通っていた),さらに時代を遡ればもっと違っていたはずです。少子化に伴い,受験業界も買い手市場になってしまったため,何より顧客満足度が重視されるようになってしまい,中学受験からずっと塾に通っている生徒・家庭も増えてきているため,必然的に予備校もその延長で評価されるようになってきたのでしょう。

 また,本来の主旨からは逸れますが,応援されて当たり前の状況で応援されても,むしろ嬉しくなくないですか?みんながみんな「頑張れ!!!」と応援してくれても,まあビジネスだよね〜と思ってしまうのは私が捻くれているからかもしれませんが,少なくとも自力で自主的に勉強していたところで,最後に「じゃあ,自分を信じて行っておいで」と言われた方が,何百倍も力になる気がします。“応援は質より量”派のみなさん,反論をお待ちしております。(おい,ひとりごとだろ)

「応援されて当たり前」意識の有無は,自主的に学ぶことができるか否かに依存する

 ここまでで,応援されて当たり前だという意識がなぜ形成されてきたのかについて述べてきました。まとめると,
・ 塾講師や予備校講師は在籍生の家庭から教育の対価を頂戴して生活している以上,応援して当たり前であること
・ 応援される環境に,親子諸共中学受験から慣れきってしまっていること

などの要因でそういう意識が形成されてきたわけです。私自身も,自分で分析的に振り返ることを通じて,そうかなるほどと思考が整理されスッキリしました。

 とはいえ,現代においても,予備校の生徒全員が「応援されて当たり前」の意識でいるわけではありません。割合はわかりませんが,多かれ少なかれ,しっかりと良識を持った大人な生徒は存在します。では,一体そこの差はなんなのか。考えてみたいと思います。

 完全に私の印象のうえでの話になりますが,自らの興味を第一に自らが志望大学や学部を選定している場合,こうした「応援されて当たり前」の意識は薄く,そもそも講師の感情に興味がないことが多いです。例えば「理学部の生物学科に行きたい」とか,「文学部史学科に行きたい」とか。概ね将来の仕事や資格に直結するわけでもないし親に〇〇になってほしいと言われているわけでもない場合,なぜ予備校で受験勉強をしているのかとなれば「自分がそれを学びたいから」というのが最大かつ唯一の動機であって,それゆえに自分で考えたり工夫することに慣れている。だから,「お前らが受かろうが落ちようが知ったこっちゃない」と講師から言われても「そりゃそうだよね〜」とすんなり納得できる。だって私の人生,私の選択だもの。逆に変に自分の進路に責任持たれても暑苦しいのです。

 しかし他方で,将来の職業や資格,実家の家業や親の願望によって志望大学や学部が選定されている場合は,生徒はどこにいてもお客さま意識であることが多く,学習姿勢は受動的であって,「応援されて当たり前」の意識を持ちやすい傾向があります。「父が歯科医(開業医)で,それを継ぐために歯学部に行きたい」とか,「親が安定した職業に就いてほしいと言っていて,そのための資格として食いっぱぐれなさそうなのが薬剤師なので,薬学部に行きたい」とか言っている生徒は,「〇〇を学びたい」という純粋な願望よりも「〇〇の資格を取らなければならない」というような意識が先行していることが多い。そうすると,学問への興味とかは全く関係なく,たとえ数学が嫌い(or大の苦手)であったとしても数学をやらざるを得ない。いわば“やらされている”感覚になっている生徒も少なくないのでしょう。だから,自分で考えたり工夫したりするようなマインドからは程遠いし,そんな中で「お前らが受かろうが落ちようが知ったこっちゃない」なんて講師に言われたら「なにこの先生,こっちもイヤな勉強を必死に頑張ってんのに,責任持って成績上げてくれないなんて,無責任。マジありえない」という気持ちになってしまうのでしょう。

 そう,結局のところ,自主的に学ぶことができるか否かだと思うのです。自主的に学ぶことができている生徒は,自分の進路は自分で決めているので,合格に向けて何が必要なのかも自分で考え,それに必要なことをやっていける。でも,そうでない生徒は,直接的あるいは間接的に周囲の大人にレールを敷かれることに慣れてしまっているので,それに従うことが最適な生き方なのです。だから,レールが外されるような言動には敏感になっているのだろうし,それに抵抗感を示すのも無理はありません。

 でも,(本記事でもこれまでに散々述べてきましたが,)実際のところ,大学なんてまさに自主的に学ぶために与えられた場所です。お前らが学ぼうがサボろうが関係ない。サークルに打ち込もうがバイトに明け暮れようが関係ない。求める者に,相応の価値が与えられる。そういう場所です。大学に入ってからそれを突きつけられては時すでに遅しですが,前述のB先生はその現実を前もって予備校で知らしめてくれたのですから,Aくんは大いに感謝すべきところであるとすら,私は思うのです。

 もちろん,各生徒なりに,各家庭なりに事情があるのでしょうから,“自主的に学べない生徒 is 悪”というふうに決めつけるつもりはありません。ただ,「応援されて当たり前」の大学受験教育の違和感の正体を突き止めたからには,そういう生徒に対して「あなたがこれから行こうとしている場所は,たぶん今あなたが思っているような場所ではないよ?」ということを,しっかりと伝えていく必要(ないしは予備校講師としての責任)があると思いながら,今後も仕事をしていこうかな…くらいの気持ちでやっていきます。


 最後に…余談ですが,本記事で幾度か出てきた“受験生を鼓舞”というワード,これを聞くと,私はさらば青春の光のネタ「鼓舞する人」を思い出してしまいます。
「応援されて当たり前」派の受験生の皆さんは,ぜひ「鼓舞する人」の言葉を胸に,本番に臨んでくださいね。そしてそれとは別に,私自身も,意思あって自主的に学んできた受験生の皆さんにとって,受験が“実りあるもの”になることを願っています。


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