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【小説】薄氷

 鈍色の、すっかり夏を捨て去った九月の空に洗濯物が揺れている。はためく色とりどりのタオルで猫たちが戯れている。夫なら、こんな曇天に洗濯物を干すなよと苦々しく言うだろう。
 天気予報では降水確率10%。雨が降ったら取り込めばいいだけの話、と言い返すやり取りを、いったいどれだけしてきただろう。
 テーブルに放置された飲みさしの、あと一口程度を残したペットボトルを処分しながら、置きっぱなしにしないでと繰り返し口にした日々。それだって毎日言うわけじゃない。何度も続いたときにだけ言うようにしていたのに、口喧しいと不機嫌になる。口喧しく言われたくないならやらなければいい。
 合理と不合理がぶつかり合うような夫婦生活だとつくづく思う。結婚して十二年。十年でも、十五年でもない。明日で十二年になる。気づけばもう四十で、取り返すには遅すぎる気がするし、まだ可能な気もする。

「プチ旅行に行こう」

  まだ夏が始まる前、唐突に結婚記念日を思い出した夫が言い出した。十年目も十一年目もないがしろにして、ひどい喧嘩をしたことを思い出したせいだろう。
 それまでの十年は別に構わなかった。私も子育てと仕事の両立で忙しかったし、なんにせよ若かったから、為せば成った。でも、十年目の結婚記念日には少しばかり期待をした。私も、不出来ではあるがそれなりに頑張ってきたと自負しているし、だけど夫も頑張ってくれていることを認めている。きっともっと遊びたいだろう。もっと自由が欲しいだろう。もっと伸び伸びしたいだろう。でも、家族のために尽くしてくれていると。

 用意したのは、ハミルトンの腕時計。お小遣いを一年かけて貯めた。しかし夫がくれたのは、駅前でアルミニウムのバケツに無造作に放り込まれている一束五百円のミニブーケと、コンビニで買った四個入りのわらび餅。
「すっかり忘れてた」とへらへら笑う顔は、かつて好きだった人とは別人に映った。
 翌年はブーケがなく、わらび餅の代わりにデパ地下で買ったモロゾフのチョコレートだった。「少しグレードアップした」と見せてきたレシートに記されていたのは、1390円の商品をポイント利用で59円で購入した履歴だった。

 激怒したのは金額じゃない。十年目に至るまではそれでも「仕方ない」と思えた。贈るものを選ぶセンスもなければ、そういうことが億劫な人だと知っていたから。それでもなにかを用意する行為が嬉しいと感じられていた気がする。
 だからきっと、十年目は特別と思う自分が卑しいのだと思う。夫にとっては九年目も十年目も違いはない。それを唐突に理解出来なくなった自分がいけないのだ。
 頭ではわかっているつもりだったけれど、でも、許せなかった。
 家事のほとんどを任せきりで、黙っていれば洗濯物が畳まれていると思っている。シャンプーが補充されているのも、ガスや電気が供給されていることも、当たり前だと思っている。
 育児だって見えている一部分すら目を塞いでいるくせに。たとえようのない孤独が襲っても、あなたは助けてくれなかったじゃないか。

 止め処ない怒りが腹の底から湧いてきて、我慢ならなかった。
 コントロール出来ない怒りを目の当たりにして夫はひどく驚いたようだった。次の日に、サザエのおはぎを買ってきたのを見て、「この人はどうしようもない」と諦めたのだった。
 なのに翌年も同じことをして、前年がそうだったのにどうして自分は期待をやめられないのだと憤り半分、あんなにごめんと謝っていたのはなんだったのかと悲しみが半分で、結局罵ることをやめられない。

 そんな二年を経て、今年こそはと思ったのだろう。
「洞爺かニセコで一泊するか」
 そう話していた夫の横顔を覚えている。「いいよ」と答えながら、「でもあなたがアテンドしてね。私は何もしないからね」と心の中で呟く。宿の手配もレンタカーの予約もアクティビティのピックアップも、全部あなたがやってちょうだい。これまで私がやってきたことは、そう簡単じゃないのよ。
 
 ベランダで踊る猫たち。今日はいつもより風が強い。
 片付いたテーブルの上に、折り目を伸ばした離婚届を広げる。二年前に取ってきて、しまい込んでいたものだ。
 結婚記念日の翌日、怒りにまかせて取りに行き、その夜の態度で決めてやると勢い込んでいたのに、おはぎで手打ちにしようとした夫を前に、怒っている自分が馬鹿だと冷静になった。それでもいつか必要となるかもしれないと、戸棚の裏に貼り付けておいたのだった。

 苗字を書いて、この名前もすっかり板についたなと思う。離婚したら旧姓に戻すべきだろうか。字画的にも今の方がいいんだけど。
 サラサラとボールペンを走らせながら、お願い、と思っている自分もいる。それがなんの『お願い』なのか、自分でもはっきりわかってはいないけれど。
 がっかりさせないで、なのか、思いとどまって、なのか。

 いずれにせよ、旅行が手配されていなければ離婚を切り出すつもりだ。手配されていればセーフ。どっちになるかは、明日になればわかる。
 網戸の前で猫が入れてくれと鳴いた。「ちょっと待ってね」と声をかける。署名欄で最後になるかもしれない苗字を書き出したその線が、いきなり掠れだした。
インクが、切れかけている。 

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