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息をするように"写真したい"
写真家の川内倫子さんが好きです。
写真はもちろんのこと、その写真から透けて見えるお人柄もとても素敵なのです。
エッセイも拝読しているのですが、その文章を目で追っている感覚は不思議と川内さんの写真を観ている時と同じなのです。
子どもからは強い生のエネルギーを感じるから葬式の場に彼らがいると空気を中和してくれる。春のはじまりの気配がそれに輪をかけ、別れの寂しさを和らげるようだった。
眠りと覚醒の狭間を意味する『うたたね』を世に送り出してから20年と少し。静と動、生と死。川内さんのカメラのピントはずっと、その相反するものの間のグラデーションにあるような気がしています。
この繊細な眼差しは、引用させていただいた上記のエッセイの一文からも感じられます。『冬と春の間に』というタイトルからも。だからでしょうか、文章からも写真からも同じものを感じるのは。
そしてそれが意味するのは、表現するメディアが変わっても川内さんが一貫して川内さんである、ということだと思います。
これって本当にすごいことだと私は思うのです。だって自分は真逆だから。そもそも私のような素人と川内さんを比較するのも恐れ多いのですが。
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私には「個性」がありません。少なくとも自分ではそう思っています。あるのはその時その時で創られる「理想」だけです。
例えば写真にしても、「モノクロで撮ったらカッコいいかも!」「ここは鮮やかに撮りたい!」「決定的瞬間が撮りたい!」「川内さんみたいに撮りたい!」みたいな、その場その場に対しての「理想」を追求するような回路でシャッターを切っています。
ですので、その日の終わりに一日で撮った写真をザッと眺めてみると、雰囲気がバラバラでまるで統一感がないのです。
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そうそう、Instagramで毎回同じようなレタッチで投稿を続けている人(だいたいめっちゃおしゃれ憧れる)がいるけれど、「飽きたりしないのかな?」といつも思ってしまいます。
さて、話を戻します。川内さんはどんな媒体における表現でも彼女らしさを失いません。それは、究極までに日常にレンズを向け続けた結果として得られた、目線とレンズ(表現)の差違の無さ、だと私は思います。
もし、川内さんの瞳の奥に感光剤が張られていたら、瞬きするたびに焼きつくその光景は、その手にあるカメラと全く同じものになるのではないかと思ってしまうほどです。
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川内さんの写真集や写真展は今までに撮り溜めていた写真から構成されることが良くあります。私はあまり写真家さんには詳しくないのですが、もし自分が写真集を作ろうと思ったら、まずテーマを決めてから、そのテーマに沿って撮影を行うと思います。他の写真家さんたちもそうなのではないでしょうか。
川内さんが既にある写真から作品世界を構築出来るのは、ふとした日常にシャッターを切り続けてきた結果としての膨大な写真があり選択が可能なことと、それら私的な生活の断片が"ハレの場"に出ることを「自然」としているからだと思います。そもそも写真集や写真展を"ハレの場"と思うのは、私、素人の感覚なのかもしれないけれど。
ともかく、その膨大な数の写真は川内さんが常日頃からカメラと共にあることを意味していて、そして実際いつでもカメラを構えてレンズを覗いてシャッターを切って来たのだと思います。
息をするように。
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川内さんの写真は「日常」とか「何気ない」とかいうキーワードで語られることが多いです。実際、そう感じる写真はたくさんあります。
じゃあ、私が何気ない日常風景にカメラを向けたら「日常」的な「何気ない」写真が撮れるのでしょうか。いいえ、これがとても難しいのです。
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私の愛機はFUJIFILMのX-PRO3というカメラです。FUJIFILMのカメラにはフィルムシミュレーションというまるで「フィルムを入れ替えるような感覚で色表現を変えられる」魅力的な機能が備わっています。
加えてそこから更にカスタムした設定を保存しておくことが出来ます。私のカメラには7つの設定が保存でき、ダイヤルを回すと好みの設定へ簡単にアクセス出来るのです。
これがとても楽しいのですが、前述した「一日で撮った写真の雰囲気がバラバラ」になる一因にもなっています。また、カメラを構えてから「どの設定で撮ろうかな……?」と迷うことにも繋がります。
使用者の私が優柔不断だから優秀なこの子を使いこなせてあげられなくて悔しいっ……。
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話が脱線してしまいました。
さて、私はダイヤルを回した一番目の最もアクセスしやすい場所に「日常」の「何気ない」瞬間を撮るための設定を保存しています。
その設定は「PRO Neg.Std というフィルムシミュレーションに粒状感を少し加えて、彩度をMAXまで下げWBは晴れのアンバー寄り、ダイナミックレンジは400%で……」というようなものです。
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つまり私が撮る「日常」の「何気ない」写真は、言語化して説明できてしまう体系化されたもので、結局は色味や"フィルムっぽさ"なんかで化粧をしたそれっぽい写真に過ぎないのです。ものすごく作為的だと思ってしまいます。
自分の目で見たものとズレている。というかそもそも私は、自分の日常を「日常」と思えていないのかもしれません。
例えば、お金をたくさん持っている人が、毎日ビビッドカラーのドレスを着てお高いレストランで食事をして家事は使用人に任せて夜遅くまで遊び歩いていた、としたら、その人の「日常」的な写真は、きっとコントラストと彩度が高くてギラギラした写真になるでしょう。「日常」の写真としてそれを見せられたらとても違和感を感じると思います。が、その人の日常はまさにそれなのです。
じゃあ、休日の朝に早起きをして、お気に入りのマグにコーヒーを入れて読みかけの小説を少し読み進めたら、洗濯機を回してベランダの花に水をやって、まだイビキをかいている家族のために冷蔵庫を物色して朝食のレシピに考えを巡らせている……。これはどうでしょう?
はい、後述したイメージの方が私の思い描く「日常」という言葉にしっくり来ます。つまるところ、結局は偏見と理想なのです。
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そもそも私が思う「日常」というキーワードは、「デジタル」よりも「フイルム」であったり、「濃い」ではなくて「淡い」。「硬い」より「柔らかい」、というようなステレオタイプで構成されています。
私の日常はこの「日常」という理想に届いていないのでしょう。だからレンズと目線に差違が生まれてしまう。
じゃあ、私の日常を理想の「日常」に押し上げるために頑張ったらいいじゃないか。というのは全く別の話で、それはそれで頑張るとしても、そもそも「日常」とは変化して当然のものなのです。
私がありのままに「何気ない」「日常」を撮るためには、まず「日常」という言葉にきちんと向き合って咀嚼して飲み込む必要がありそうです。そうして「日常」と日常の距離感をつかんだら、変に写りを演出しようとする意識は無くなるでしょうか。
とは言え、カメラの設定をカスタマイズするのをやめてなんとなくシャッターを切ったところで凡庸なつまらない写真になるのは目に見えています。そもそも設定をいじらない「ニュートラル」な状態が、必ずしも「私の目線と近い」とは言えないでしょう。
……もう、ホントにわかんない!
どうしたらいいの!!
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さてさて、川内さんの写真は、私を例に挙げたような作為的な感じを全く感じません。本当に自然体なのでしょう。自分の日常の中にある何気ない被写体を写真として成立させていて、なおかつ魅力的なのだからすごい。
ファインダーをのぞいてダイヤルをグルグル回して「撮りたい!」と思った瞬間から遅れてシャッターを切っている私とは大違いです。というか、カメラを構えて色々考えているうちになんだか冷めてしまって手を下ろしてしまうことも良くあります。
ああ、そうでした。そういえば最近、「息をするように」とはいかなくても「撮りたい!」気持ちそのまま、自分の目線の先でシャッターを切れた出来事があります。
それは、「写ルンです」だけを使ってで写真会をした時のこと。
記事の中でも触れていますが、写ルンですはカメラを構えたらシャッターを押すか押さないかという選択肢しかありません。あとはフラッシュを焚くか焚かないか。
このシンプルさはとても心地の良いものでした。選択肢がないことは迷わないことでもあります。「撮りたい!」からシャッターまでのタイムラグはほとんどありません。極めれば空間は歪んで黒い稲妻が走るかもしれません。
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要は選択肢を極力削ることが大事なのだと思います。構えて、撮る。写りはあんがい自分の心の持ちようでいくらでも良いものに見える気がします。というか、もうカメラとレンズに任せてしまっていいのかも。
というかレタッチ前提で撮ればいいじゃない。そう思ったのだけれど、RAWでパシャパシャ撮りまくる感覚ってなんだか「素材集め」って感覚の作業になってしまいそうです。
多少レタッチするとしても、やっぱり出来上がってくる写真はシャッターを切った時の高揚感の延長線上にあって欲しいと思います。
とにかく日々写真を撮り続けて、自分のカメラと向き合って日常と向き合って、技術を身につけて時にはそれを捨てて、無駄を削ぎ落としてカメラを信じてシャッターに集中して……。
そんなこんなを積み重ねたら、川内さんのように生き生きとした写真が撮れるでしょうか。ひとりの人間としてブレない存在になれるでしょうか。
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さて、だらだらダラダラと書いているうちに自分でも何が言いたかったのかわからなくなって来ました。一度深呼吸でもして落ち着きましょう。
スーッ、ハァーッ。スーッ、ハァーッ。
そうそう、まさにこんな感じです。
スーッと吸うように構えて、ハァーッと吐くようにパシャ。
あぁ、息をするように写真したい。
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