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救急車に乗る

今、部活で合宿にきている。
この合宿は、メンバー全員で同じところに泊まり、同じ練習をする、一年で一回だけの特別な合宿だ。

昨日はその初日だったのだけど、大雨なので体育館でレクをやった。脳筋の体育会系ばかりなので、楽しくやっていいレクを全力で汗ダラダラ垂らしながらやっていた。
シャトルラン、89回出来たの、結構誇りに思ってるし、ドッチボールも男子3人くらい当てたし、かなり嬉しい。女子だからって油断してる男子どもが私の思ったより速いボールにびっくりしてるの、ほんと気持ちいいですね。うーん性格がよろしくない!

ここからが本題なのだけど、
その後、車に帰る途中で、
雨でぬめった藻まみれの路面で滑って、後ろから着地した。

まあ、つまり後頭部をコンクリで強打したってことだ。

いやーもう痛いし痛いし頭ぼんやりするし、怖いし、割と本気で死ぬ可能性を考えていた。

周りで仲間たちがめちゃくちゃあわてていて、ああ、私ってこんなに心配してもらえるのか、なんて場違いなことを考え、タオルを私の身体にかけ、傘をさして、手を握って、大丈夫、いま救急車呼んだよ、と言ってくれる友達の手をやんわり握り返しながら、痛みとか全く関係ないところで泣きそうになっていた。

今、こんなに心配してくれるなら、この中で死んでも割と後悔はない、というか、この暖かさの中でなら、普通にいいのかもしれないと思い、みんなきっと泣いてくれるな、とか、ふざけ散らかしている同輩や生意気な後輩や煽ってくる先輩も、きっと悲しんでくれるなり寂しがってくれるなりするだろうと思い、こんな死こそ、昔の私が望み続けたものだろうと思った。

救急車が来るまで、身体をさすり、冷えないように上着を着せ、手をずっと握ってくれた後輩もいい子だなあとか思っていた。流石看護師の卵だなと思った。私は病気になったらこの子の働く病院に行きたい。

救急車の中、友達がついてきてくれて、幹部の人との連絡とか私の母との連絡とかをしてくれた。その間も手を握ってくれていた。なんで、こんなに手って安心するんだろうか。暖かくて、湿っていて、生き物が、私の存在を認めてくれている感じがする。その生き物が、私の名前も私の顔も、私に関するものを沢山しっていて、それって、なんて凄いことなんだろうと思う。

大仰なことを沢山書いたけれど、結局、私は別になんともなかった。一応合宿早退して病院に検査しに行くけれど。

病院まで先輩が迎えにきてくれ、食べやすいだろうからとゼリーまで買ってきてくれて、お金払おうとしたら、0円!!と言ってくれ、ありがたくもらった。病院から合宿所まで40分あって、その往復をしてくれる、しかも夜、細い山道。疲れているだろうに。優しい人たちだ、と思う。

帰ったら、主将と同期が1番に迎えにきてくれて、その後すぐ全員玄関に来てくれた。いつも心配とかしないだろ、みたいなメンツすら、全員降りてきていて、重要度が、馬鹿騒ぎ<私  になった、という事実に驚いた。アイコンタクトで、大丈夫?って伝えてくる同期に、大丈夫と笑って返すと、眉を下げて安心した顔をしていた。

その後、取っておいた夜ご飯をスタッフさんが出してくれ、年配の綺麗な女性の所長さんが、心配していたよ、と温かく迎えてくれた。私のこと、娘みたいに思ってくれてて、安心した、と本当に嬉しそうにしてくれ、具合悪くなったらすぐに言ってねと言ってくれた。私、この人の娘になりたいと本気で思った。温かくて素敵な人だった。

時々、言葉の一つ一つが真に迫る人がいる。所長さんはそういう人で、言葉に気持ちが自然とこもっているからそうなるんだろう。きっと、心から心配してくれていたんだろうと思う。私が同期と抱き合ってるのを見て、心配だったよね、なんとも無くてよかったねと顔を歪めてらして、もう、こんな優しくて感受性の豊かな人、なかなかいないよと思い、この人と繋げてくれたこの事故に、また一つありがとうと言いたくなってしまった。

母親が迎えにくると言ってくれたのだが、私はまだ合宿にいたくて、というか、みんなと一緒にいたくて、親の優しさも心配もありがたい、けれど、なんで、好きでもない人のところに行かなくちゃいけないんだと本気で思い、感謝と好悪は別問題だと駄々をこね、それを同期に諌められた。ひいろと一緒にいたいけど、ちゃんと検査しておいで、もし何かあったら怖いよと、言われ、帰ることにした。

で、私はいま親と、家に帰る電車の中だ。

私は頭を打ってから今までずっと、
ああこんなに私って心配してもらえるんだ
しか考えていない。心配してもらえることがここまで嬉しいのが、病的なものなのか、割と一般的なものなのかがわからなくて、でも、私が病院にいる間の食事がお通夜だったという話を聞いたり、みんなの心配そうな表情を見たりするたびに、ああ怪我してよかったかも、とか少し思ってしまうのはよくないのだろう。それどころか、ちょっと大事になって欲しかった、何かしらの異常が起きてて欲しかった、と思ってしまう。それも、よくないことだと、わかっている。

勿論、何も無くてよかった、頭の怪我なんてしたら、今後部活ができなくなるかもしれないのだし、異常がなくてよかったと、本気で思ってはいるのだが、そういう理性とか常識とかとは別のところで、もっと皆からの心配を集めたい、もっと分かりやすくみんなの気持ちを私に向けるための材料が欲しい、という感情が渦巻く。

少し、昔を思い出す。しんどくてしんどくて、もう消えたいと思って、いっそ鬱と診断してほしいと思っていた時のことを。あれは、しんどさに、科学的な証明と信頼と正当性が欲しかった、のだと思うけれど、同情と許しの材料が欲しかったのもあったろう。みんなに私の存在を証明してほしい、好きな人たちからの感情を一瞬でも私に向けてほしい、というあの病的な寂しさは、きっとまだ癒えていない。

好きな人たちに泣いてもらうために死にたい、と思った時期もあった。それも多分同じで、長期的な感情と関係性の持続に期待ができないから、自分の人間性や魅力に対して、感情が持続し得るような引力を信じられないから、死という強烈な出来事をもって、自分への感情を瞬間的に極限まで高めようとしていた。

書いていて、悲しくなってくる。これだけ、これだけ大切にしてもらっておきながら、その優しさを信じられない私にも、そんな私を作ってしまった私の過去の環境にも。

ただ、シンプルに、周りの人からの心配を嬉しいと思い、心配させてごめんね!くらいの朗らかさを持てるようになりたいと思う。(やり方はわからない








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