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【前編】情熱

三浦しをんさんの『舟を編む』を読んだ。
私の知らないところの、知らない形の情熱。あらゆる場所で生まれた情熱が、今も昔もこれからも、ずっと渦巻いていくのだろうと、そしてそれが、社会を動かしていくのだろうと、そう思う。


辞書。あの染み込むようなずっしりとした重さは、言い表し難い安心感を持っている。

辞書は、勉強に不可欠な物でありながら、他の勉強道具と一線を画す神聖さがあった。教科書は汚せても、辞書はなんとなく汚せない。書き込むことに強い抵抗感があるのだ。でも実際に書き込んでみると、もう一度そこを開いた時にその言葉に親しみを覚えた。いつも、私が知り得ない何かと、私の記憶を同時に孕んで、佇んでいる。辞書は、そういう心地良い存在だった。
中高で愛用した古文の辞書のことを思い出す。白と青みがかった緑色の箱に入った辞書だった。辞書に堅苦しい赤色のイメージのあった私は、その綺麗なデザインに妙にドキドキしたのを覚えている。お洒落な辞書、という不純な理由だけで選んだ。けれど、私の長い長い大学受験に寄り添ってくれた素敵な辞書になった。

私は、辞書のことをずっと聖書か何かだ、と思っている。それは厚さとか紙質みたいな面でも共通項があったけれど、もちろんそれだけではない。誰一人知らないうちにいつのまにか「そこにある」存在だと自然と思い込んでいたし、膨大な量の言葉を定義することに、何故か必然性を見出していた。頭では私と同じ人間が編纂していることはわかったいても、その作業量に想像がつかず、神様が一瞬のうちに編み出しているもののように感じていた。


この作品では、様々な登場人物に視点が変わりながら、国語辞典の編纂が描かれていく。
勿論小説だから、簡単に年単位で時間が進んでいくのだが、実際は本当に気が遠くなる作業の連続だ。枚数も文字数も多い上に、5校まで刷って確認しなければならない。もちろん、辞書という性質上、大量の言葉を一つ一つ定義していかなければならない。今までの文献や辞書を照らし合わせて、あくまで自分の言葉で。
読みながら、辞書編纂という仕事の大変さ、我慢強さ、そして彼らの情熱をひしひしと感じた。それは、もちろん現実に即した描写も一役買っているけれど、なにより登場人物たちの豊かさに影響を受けていると思う。

私がいちばん好きだった視点は西岡。世渡りが上手そうに見えて、そんな自分に嫌気がさしている。なんでもそこそこできるからこそ、突出した何かがない。何かに「熱中」したことがない。そんな人だ。
近くにあまりにも純度の高い感情を、熱意を、持っている人がいると、自分の抱えているものが稚拙で安っぽく見える。
馬締の愚直なまでの「熱中」を見てしまった西岡は、自分がどこか欠けているような気がしたんだろう。西岡には西岡なりの真剣さがあり、思いがあり、こだわりがあるのに。

→後編に続く



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