文字盤のカタルシス、人間関係って何だろう?
「整列と私」
少女マンガを読みたくて
人間関係について、それは何かを紙に書き出しながら考えていた。
そこには固くて、面白味に欠ける自分自身が、言葉と文字に、文章となり、整列していた。
つまらなくて、自分だけど自分じゃなくて、常に正義を追い求めているような、規則に乗っていなくてはいけないと、静かに真面目に隠れて過ごす、そんな、会社で働いているような自分の姿が見えて、嫌になり、書き出していくのをやめてしまった。
私は苦しくなっていた。会社でのある飛沫が、火の粉となって飛んで来て、苦しくなってしまっていた。
「わたしたち、はじめはどうだったっけ?」
あの頃の自分が私を呼ぶ。
広げた紙をそのままに、私はnoteを書き始めた頃の自分の記事を、まるで少女マンガを読むように、大切にそっと取り出し、あの頃に戻って優しく読んだ。
わたしはいつも真面目で一生懸命
張り詰めて、責任の所在を知りたがる
…本当にそうだ
そう思う。
そうじゃなくていいのにね…
「文字盤のカタルシス」
人間関係って何なのか
振り返ると、noteを書き始めた頃の文章は、単純で簡単な言葉を文章にして書いている。
それは長い間、心の中に埋もれていた自分の思いを懸命に掘り出そうとしている純粋な自分の姿であって、その思いを見つけ出したい、閉じ込められていた自分を救い出したいと必死に、自分へ向かう姿でもあった。
で、人間関係って結局何なのか、
それは現実を生きる自分と心の中の自分、そしてその間にある感情、それらの関係性の現れであって、だから何事も、周りがすべてではなくて、それを責めるでもなくて、自分のすべてなんだと私は思う。何か嫌なことがあった時、生きづらさを抱えてしまった時にこそ、この自分、どの自分?
あの頃のあのわたし?と、探したり、その自分を認める、肯定することに力を注ぎ自分に向かう。人間関係を改善しようと思ったら、先ず自分自身へ向かって行こう。向かうとは、自分を知ること。客観的に多角的に自分自身を観ること。その視点を持って好きな少女マンガを読んだり、映画を観てみると、この自分、あのわたし?に出会えるし、そこから知り得る自分が在る。
今を生きる秒針が、あの頃を生きる短針を連れてきて、あの時を、長針を進めることができるんだ。
どこを生きていても、わたしは私。
先ずは自分の文字盤と針を整えて進んでいこう。
大丈夫
すぐじゃないけど
必ず変わってくるよ、人間関係。
「今日の一枚」
そういうもの
おわりに
「わたしはわたしになっていい」
文字盤を
左右に
どちらにも
決められず
規則的に流れるその中を
そうやって
結局は
右へまわっていくしかなかったり
いつも左へまわってしまったり
嘘と迷いを
外さずに
そこから
外されていかないように
進んでいく今を
やめていいんだ
結局
針は
いつか
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