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「イメージを逆撫でする 写真論講義 理論編」(前川修著、東京大学出版会、2019)

読了日: 2023/7/27

 ベンヤミン、シャーカーフスキー、セクーラ、ブルデュー、ベルティンク、クラウス、バッチェンの論考を再検討し、デジタル写真時代の'現代的'写真論を編もうとする。終章にはバルト「明るい部屋」が再検討される。

 再検討に用いられるツールは、モダニズム/ポストモダニズム、形式主義/文脈主義、インデックス/リアリティ(写真メディアの独自性)、美的/社会的、そしてアナログ/デジタルなど。
 批評家の論説をまとめたものには「写真の理論」(甲斐義明編訳、月曜社、2017)があるが、こちらに掲載されるのはシャーカフスキー、セクーラ、クラウス、ジェフ・ウォール、バッチェンで、多くが重なる。刊行年は若干異なるが、'写真論'がどのように語られているのかを紹介するという志向ではおおむね同じだと思われます。しかし、本書(「イメージを逆撫でする」)では、より現代的に、'写真は死んだ/いやまだ生きている'状態の判別などに、筆者の考察をあらわそうとするのが本旨です。(と思います)

 なぜ論者のリストが重複するのか。同時期の刊行であるからそうなるともみることができるし、また写真論とあれば定石の彼/彼女らとなるとも思われるが、(小生の浅学無知を前提に)おおむね彼/彼女ら以外に主だった論考がないのではないだろうか。
 写真論御三家といえば、ヴぁルター・ベンヤミン、ロラン・バルト、スーザン・ソンタグであり(バルトは終章に収録)、今橋映子のいうように御三家から'逃れられない'状態よりアップデートされないようにも映る。写真論がどうも腑に落ちない、好きになれない理由は、専ら理解力・集中力であることは否定できないが、どこかの井戸の中でずっとこねくり回している感があるからかも、と最近思ってます。
 それほど多くの'写真論'を読んだわけではないけれども、今のところアップデートは感じられない。参照する範囲が狭いことも論旨に緊密さを難じられない理由かもしれない。
 本書で参照される哲学分野では、チャールズ・サンダース・パース(「インデックス」)、ヴィレム・フルッサー(「コード」)などくらいで、けれどもパース(「インデックス」)は、'写真の独自性'とセットなっている代物で、フルッサーはメディア論を専門のとするので写真とは切り離せない。またデリダの名があったとしても、ベンヤミン絡みであろう。

 本書の前に「痕跡の光学」を半分まで読んだのですが、返却期限により挫折しました。前川氏の本はこれが2冊目(1.5冊目)です。'インデックス(性)'や'ヴァナキュラー'など、「すでにみなさんご承知のように」な感じで使用される語句が当初からつまづきのもととなってしまっているのは、小生の能力所以であるが、つまり一般性はない。
 とはいえ、フォローの意図はないですがそれぞれの深読みには研究者ゆえの仕事であるとも思え、いちおう(少しではあるが)ふむふむなるほど。とはなりました。


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