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母と太平洋戦争

私は戦後の31年生まれ、団塊世代のちょっと後の戦争を知らない子供たちだ。母は昭和5年生まれ。他界してもういないが、その母から聞いた戦争の体験だ。

勤労動員

兵庫県の淡路島、洲本の国民学校を出た後、勤労動員で神戸の工場に行かされたとのこと。どんな仕事だったかはちゃんと聞いておらず覚えていない。大変だったらしいが、母からは要領の悪い子が可哀そうだったと言うのを覚えている。人に優しかった母らしい言葉。

兵庫県の各地から、たくさんの少女が動員されたようだ。中には、いわゆる芦屋のお嬢様もいたとのこと。平時なら絶対に交わらないはずが机を並べて作業をしていたと想像すると、平等の皮肉が感じられる。

空襲

空襲は何度かあったようだ。空襲というと、私が子供のころ、近所の花火大会の日の事が思い出される。どうやら母は打ち上げ花火が好きではないらしいので、理由を聞くと、空襲を思い出すからだと。ヒューという音が焼夷弾の音と同じだと。その時の自分には母の体験を思いやる事はできなかったが、今、この歳になるまでに戦争の実態について多くを知ったので、その時の母の思いをより多く思いやることができる。しかし、こんな重要な話、けろっとした顔でしちゃ駄目だったよとも思う。

神戸大空襲

動員も最後は神戸大空襲で終わったようだ。とにかく、最後は大きな空襲があり、母は焼け出された、ようだ。一人になってしまい、うろうろしていたら、同じ洲本出身の先輩だった子に奇跡的に遭遇でき、それで家に戻ることができた。この時の話、詳しいことは知らない。今思うには母が話をしなかったからだ。なぜ話さなかったか、今はわかる気がする。

逃避行

その先輩と二人して、神戸から連絡船で淡路島まで。そこからは徒歩で帰ったとのこと。淡路島のどこかはちゃんと聞かなかったが、岩屋という地名をよく聞いたからそこだと思う。だとすると、30km以上歩いたという事になる。

母の昔話で良く出るのは、この洲本までの逃避行だ。とにかく、辛かったと。先輩がきつい人で、腰を下ろして休ませてくれなかったと。一度座ってしまうと二度と立ち上がれないからだと、先輩は言ったらしい。先輩は先輩で責任を果たすのに必死だったのだろう。後年、母を連れて淡路島にドライブしたが、「そうそうこの道だった」と。車でもそこそこの距離の道を母はどんな思いで歩いたのだろう?疲労と空腹で何も考えられなかったかもしれないが。

命とられる訳じゃなし

子供のころ、やりたくない事、嫌な事が合って駄々をこねた経験は誰にでもあると思う。母が「命を取られる訳じゃないでしょ」と言ったのを覚えている。当時は、文字通りに受けていたが、今は、母の実体験に基づいていたのだとわかる。

母は、声高く反戦を叫ぶことは無かったが、戦争を毛嫌いしていたことは良くわかる。あれだけ頭が良くて手先が器用な人だから、戦争が無ければもっと充実した人生になっただろうにと思う。(そうだとすると自分が存在しないことになるが。)

戦争に負けて76年。母や当時の人々のつらい体験を私たちはせずに済んでいる。その理由のひとつは、母のような人たちの強烈な体験に裏打ちされた反戦の気持ちだと思う。その思いを少しでも若い人が継承してくれたらと思う。




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