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随筆|写真を撮る意味について

抽象的な概念を、形に表そうとした時に、意味が出来上がっていくとして、写真を撮ることそれ自体が既に意味になっているのですが、その過程において、意味を考えてしまうと、写真を撮ることに意味を感じなくなってしまいます

人が生きる意味や理由は、その都度、変わっていくもので、最終的な行き先は、死ですが、では、死を迎えるために生きているかと問われれば、それは僕の中では肯定できます

死があるからこそ、僕らは、自分が居た証を残したいという自我の欲求が生まれる、それはエゴでもあるけれど、その中で、関わっていく様々な人、環境、モノ、時間、その全てにおいて、何が還元できるか

自己とそれを取り巻く全てに対して、何が残せるか

ここに、写真を撮るヒントもあるのかなあって思います

ここからが本題なのですが(前置き長)、僕は、僕自身から生まれた写真と言うものと対峙していく事で、自分自身を知りたいという欲求があります

写真という形になった自分自身、それを客観視した時に、自分はどう映るんだろう、その時、どんな気持ちでいたんだろう、それを知る為の抗いを、写真で行なっているのかなって思っています、どこまで行っても、自分自身は影の如く付きまとっていきます、それを見ないことにすると、恐らく、生きた心地がしない

悩み苦しんで考え抜いて、結局のところ、意味が何なのかは、答えを知らずに死んでいくのが人間なのかもしれません、それを前提とした時に、死を迎える事で、初めて、僕やあなたという存在のこの世で生きたということの余韻が生まれる

貴方が生きていたという証が、誰かの心に宿っていく、写真は、その余韻を感じさせる一つのアイテムであって、れっきとした自分であることを、肯定してくれる物だとも感じます

だから、写真を撮る

写真だけではなく、自分自身と向き合う全てにおいて、何かを残そうとするその芸術的欲求は、生きる意味にも繋がっていく、意味がわからなくとも

ただ、何となく、意味を見失いかけた時というのは、自分自身との向き合いに対して、億劫になっている可能性もあります、そして、どこまでも他者を意識せずにはいられないような自己の余裕のなさも伺えます

そんな時の処方箋は、距離を置くというのが手っ取り早いかもしれません、写真との距離を置くことで、自然とまた撮りたい欲求が生まれて、撮る事がただ楽しいという感情が戻ってくるのかもしれません

ここら辺は、憶測であって、何を感じているか、それを全て知っているわけではない為、確実性に欠けます、なにかのヒントになれば

ということで、noteにまとめてしまいました長過ぎて
あくまで僕の価値観であります、気に障ってしまったらごめんなさい

そんなこんなで皆さんも、よき写真ライフを

いわゆる、駄文