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随筆|考えることをやめない大人達へ

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注意:この記事は、6年前にダラダラと書き殴ったものを、noteに転載したものです。各所、訂正した部分はありますが、6年前の自分が書いたものなので、荒い部分もあるかと思います。考え方も捉え方も変わった部分も多いので、その当時の自分と現在の自分とには、乖離が生じています。それを踏まえてお読みいただけたら嬉しいです。

以下本文
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考えるということを止めようと試したことがある。脱思考である。思考に囚われている自分をつまみ出して、感性とか感受性とか、そういった感覚を取り戻すための抗いである。思考することで身動きが取れなくなることがよくあるので。

何かを表現する時、歌でも執筆でも写真でも声を出すという行為でも何でもいいけど、そこに思考することで、感情やその物事の所作をある程度、コントロールすることが出来る。静かに歌おうとすれば静かに歌えるし、丁寧に書こうと思えば丁寧に書ける。問題なのは、思考が練り固まりすぎて、自分の行動を抑制や禁止しようとしたりする過剰な思考である。

トラウマは、心の傷からその体験を作る要素の一つが目の前に現れた時、それがフラッシュバックすることで、その体験をあたかも今起きたことのように錯覚してしまう。その怖さから、その体験をしないような行動、思考を強く練り固める。その結果が、身動きの取りにくさだと思う。

僕も経験を持ってして、色んな怖さを抱えるようになって(それは大したものじゃなく、日常的であって、誰にも一度や二度経験するような類のもの。単純に、叱られるとかそういう類のもの)、それが記憶の隅に無意識的に根深くまとわり付くようになった時、それに関連する何かに触れた途端、怖さを感じる。思考してしまう。行動を抑制・禁止しようとする。身体に生理的な反応が生ずる。冷や汗なり動悸なり頭痛なり発生する。

赤面することが怖くて、赤面することを隠そう隠そうとしたら、何だか余計赤面するというようなことは聞く。脅迫観念から逃げるための抗いが、結果的にその症状を重くする。赤面した自分が注目されることの怖さに耐えられないから、抑制しようと思考をするんだと思う。

こんな風に、自分のどこかに過剰なまでの意識がある時に発生する弊害は、身動きが取りにくい要因ともなる。僕はそこで脱思考的なものを試すようになったんだっけかな。方法論は学びました。赤面で悩むなら、もっともっと赤面してやろうと思考するとか。

その結果として、赤面を禁じた自分に赤面をすることの許しが与えられて、気持ちが楽になると共に、赤面することが人間にとっての普遍的な生理現象だと、客観的な思考に切り替えることに繋がる。僕は何かを表現する中で、そのアプローチは必要だと思うし即効性があるから、重宝したい方法論だなーと思ってます。

んで本題は、何かを表現する際に必要な感性とか感受性をどう得るかですね。意識するものの全てが思考に支配された時に、そこに感性といったものの介在を許さないんじゃないかと。そこから脱思考的なものを考えて実行するようになりましたね。

簡単にいえば、考えずにただありのままを受け止め表現するというシンプルなものです。僕は適当に詩を書いたり執筆するのが好きなんですが、執筆に至っては何も考えていません。こういった文章ね。詩も最新のものは、何も考えずにただただ指をタップしているだけです。不思議と気持ちがいいし、ちゃんと言葉になっているんですよね。そこからちょっと手直しはしますが、言うなれば、ガキンチョの筆遊びです。やつら何も考えていないですよ、社会に対する鬱憤だとか、政治のあり方とか国際情勢だとか。ふなっしーうぜえ思いながら梨の絵を書いてるかもわかりませんが。

つまるところ、童心に還るということが手っ取り早い脱思考法です。大人になればなるほど大事な要素だと思うなー僕は。

僕はあくまで理屈は、アプローチするための拠り所としています。それがすべてではない。理屈を無視して、とにかく頑張ればいいなんて精神論は、心を病ませる可能性も出てくるんじゃないかなーと思います。車の運転をするのに、気合いだけではどうにもなりません。バランスです。

もうこんな時間だ。書いてると時間を忘れますね。この記事が何かのヒントになればいいなと真面目に祈っています。それでは、おやすみボンバイエ。

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