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年忌法要に抱く、不謹慎なこころ

 法事の日が嫌いではない。仕事や学校をお休みして、家族そろって朝から出かける。故人を思うと寂しくもなるけれど、特別ないちにちだ。

 お寺に到着すると、控え室へ通される。そこでおとなたちは再会の挨拶を交わし、お茶を飲みながら近況を語る。日ごろ顔を合わせない親戚が集まるのだから、話題には事欠かない。だれが結婚した。かれが引っ越した。あれのローンが終わった。それが入学して、これが就職した。そういった話だ。

どれも近くはなくとも身内の話である。お互いに、ほどよく興味があり、ほどよく興味がないという、ふんわりとした会話になる。一方のこどもたちもすっかり打ち解け、お茶菓子を食べながら、携帯型ゲーム機の見せ合いをしている。当たり障りのない穏やかな時間。やがて戸が開くと、若いお坊さんが現れ、法要の準備が整ったことを告げる。

 和尚さんがお経を読むあいだはもちろん、じっと聞く。じっと聞きながら、お経の意味を理解しようと努めてみたり、古い思い出を掘り起こしてみたり、前にすわる叔父のうしろすがたを観察したり、目をつぶって何も考えないということに挑戦したりする。退屈さはみじんも感じない。それどころか、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。お堂のなかで、読経と木魚と鐘の音、お焼香の香りにつつまれてじっとしているのは、なんとも居心地が良いものなのだ。

 無事に法要を終えると、お寺近くの鰻屋へと向かう。通された部屋にはよく冷えた瓶ビールとオレンジジュースが用意されている。おばあさんだけは、夏なのに熱燗を注文する。飲み物が揃うと、献杯。また世間話に話に花を咲かせる。熱々のうな重を頬張りながら、とにかくあれこれとよくしゃべる。食後のほうじ茶を飲むと、店先で解散となり、またいずれと再会の約束を交わす。

 帰宅するころには日が傾いているが、たいしてお腹は空いてないので素麺を茹でて家族の夕飯とする。食卓から見る定時のニュースで、世の中がきょうもいつも通りに動いていたことを知る。その夜は、いつもより一時間ばかり早く寝床につく。

 ぼくは、そんな法事の日が嫌いではない。


きょうもお読みいただきまして、
ありがとうございます。

それでは、また明日。

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