見出し画像

「ルール」との付き合い方を考える

先日、大学生のインタビューを受けました。その時に、「食」の話題から流れで、私の「ルール」観を話すことになりました。

私は、「発酵食品を正しさから開放したい」とかねてから伝えておりますが、基本的に、ルールが苦手です。

日常生活の中に、ルールを設けることが苦手です。厳密には「ルールを守ることが自己目的化」することが苦手です。

食生活のルールとの向き合い方

特に、「食」や「健康」は、ルールや基準が多く存在しがちな分野です。”一日30品目”とか、”夜何時以降はカフェインはとらない”とか、”毎朝1キロ歩く”とか、”毎日何リットル水を飲む”とか。

私は、寝たいときには寝て、食べたいときには食べればいい派です。野生動物が健康のために1キロ歩かなきゃと思って歩いているわけではありません。

でも、運動が不足してくると生理機能が働いて、体が運動を欲するようになる。水分が足りなければ喉が渇くと言うのが一番シンプルでしょうか。やはり、ビタミンが足りなければ野菜が欲しくなりますし、タンパク質が足りなければ牛丼が食べたくなります。酔ったあとにラーメンが食べたくなるのは、アルコール分解の過程で、炭水化物やイノシン酸が必要になるから。その体の声に耳を傾けていくことも大切かなと思います。

そして、夜お腹が空いたら、食べれば良いと思っています。ただ、その時に、「なんで22時なんかにピザが食べたくなるんだろう?」→「ああ、そうか、忙しくて昼食をその辺の物で済ませちゃったから、玉突きで今腹が減ってるんだな」と、自分を内省する基準として利用し、改善を図っていく、それがルールや基準との付き合い方です。

「一日30品目採りましょう」ってのは、正直、健康にポジティブに生きるためにやるのであって、そのルールがプレッシャーになったり、ストレスになっていたら、本末転倒じゃないかと思うのです。

校則との向き合い方

そして、同じことが、校則にも言えます。良い記事だったのでリンクを張っておきます。

こうした生徒の心の変化を読み取る上で、服装などの変化を見とるのは、有効な手段だったと思うのです。「目つきや表情が悪くなった」から次に「服装等が変わった」、だから変化の原因となっている心情に向き合おう、と。でも、今は「まず服装を指導する」。これでは心情の部分が全く解決していなくて、恰好だけ直すのなら、その指導は一体何のために行っているのでしょうか。

https://president.jp/articles/-/57420?page=5

私は、まさに、これが、ルールや基準との付き合い方だと思います。それを記事でも指摘されているとおりに、

最初は「どうしたの?」のはずなのに「違反じゃないか! 長くしなさい」などになっている

というのは、まさに「ルールを守ることが自己目的化」している現象ではないでしょうか。

これは、食事のルールで置き換えれば、「22時になってお腹が空いてきた、でも、22時以降は食べちゃいけないルールだから食べちゃだめだ!」という思考になるのは、ルールが自己目的化している。校則における「違反じゃないか、長くしなさい!」と、同じ対応を、自分の体に対してしているのだと思うのです。「自分の体よ、どうしたの?」と声を聴いてあげたいですね。

そう、ルールとは基準であり、それと外れたときの「シグナル」として利用する。そして、何故外れたのか?何故想定通りに行かなかったのか?を検証することで、新しい洞察や知見を得て学んでいくというのが、ルールや基準と向き合う知的に真摯な態度だと思います。

シミュレーション結果との向き合い方


【何故外れたのか?何故想定通りに行かなかったのか?を検証する】と言う態度が、このコロナで、今の日本に少し不足しているのかな?と、個人的には思います。

コロナのシミュレーションで、ある学者さんが40万人死亡するなどのシミュレーション結果を発表しました。そして、現実にはそこまでならなかったのですが、そのシミュレーションが外れたことで、大きな批判に晒されました。

私が経済学部の学生だった頃、統計学の授業で教師がこういっていました。「モデルはモデルなんです。モデルが現実と違うから役に立たないと言う人が言うが、現実と違うからこそ、モデルだとこうなるはずだ、でも現実は違う、じゃあ、モデルと現実、どこの条件が違ったのか、何が想定されてなかったのかと、考えを深め、現実をより理解できるようになる。その手がかりとして、モデルが大事なのだ」という話をされていました。

40万人死ぬというモデルが現実通りだったかどうか?で、思考を止めるのではなく、現実には40万人もなくならなかったね、じゃあ、モデルと何が違ったのだろう?人流の予測だったかな、生活習慣だったかな、それとも、毒性を過剰に見積もっていたかな、と、現実の対策へのヒントを探るためにモデルがある。

だから、「モデルが間違ってた責任」みたいな話は、ちょっと違和感があります。そこで責任を問われたら、仮説を立てて思考することが出来なくなります。

それが、「モデルは現実を当てる実用的なもの」という考えがいきすぎると、正解、不正解になり、「不正解の責任」みたいな、ギスギスした話になるのかなと思います。モデルはモデル、現実でなくて良いのだと思います。

ルールや基準を守ることが生き甲斐の人もいる

最後に、「ルールや基準を守ることが趣味/生き甲斐」という感覚も触れておきたいと思います。ルールや基準を守ることに、一種の達成感を感じる人があります。それは、ルールや基準が厳しく困難なものであるほど、守り抜くこと自体に強くアドレナリンが出て、守り抜いた自分に対して、成長実感を覚えるタイプの人がいます。

ちょうど、ドラゴンボールで孫悟空が「おら、もっと強い敵と戦いたい」みたいな感情でしょうか。疑問形なのは、正直、私は、その感情が薄いし、そこにモチベーションを感じるタイプではないので、あくまで推測です。

何か、目的に向かって、努力して、達成していくことは素晴らしいことだと思いますが、「努力」には、ポジティブなものと、ネガティブなものがあるとも思います。

この話は、次回以降にしたいと思います。

5月19日追記:追記しました


最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683