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発酵を「正しさ」から開放したい

久しぶりのnoteになってしまいました。2月も後半になってから今年の抱負というのもなんですが、今年の抱負的なものを書いていこうと思います。

結論から言えば、発酵(特に麹に関して)「正しさ」や「べき論」から、開放したいということです。

率直に、感覚論で申し訳ないですが、発酵界隈、たまに息苦しさを感じます。なんというか、隙が無いというか。発酵ブームはありがたいのですが、一方で「こうでなくてはいけない」というのが強くなってきた傾向も肌感覚では、感じます。

「天然菌」「純粋培養菌」という言葉があります。種麹は「天然菌」の立場の人からすると、ともすると、敵対関係的に「純粋培養菌」と呼ばれたりします。

そこで、どっちが正しいとか本来とか、正当性で考えるから、息苦しくなるのだと思います。正しさは、正誤を生じ、優劣を生じ、勝ち負けを生じます。

進化ではなく、選択肢が増えた

「進化」という言葉があります。「天然菌」から「友種」になって「種麹」になってきたこと、その上で「種麹」に疑問を感じ「天然菌」になっていくこと、それを「進化」として捉えると、「先頭以外は全員不正解」になってしまいます。

「技術の進化」「価値観のアップデート」という表現をよく見ますが、進化やアップデートという言葉には、新しいものは古いものよりも素晴らしいものである、つきつめれば、「最新以外は間違い」という価値観が紛れているようにも感じます。

「技術の進化」ではなく、人類は「天然菌」という方法も「友種」という方法も、「種麹」という方法もあるという、お互いを否定しない「技術の選択肢が増えた」と言う捉え方は出来ないものでしょうか。

リスクやメリット、そして、個人的な価値観を踏まえた上で、最適なものを選べばいい。そういう考え方こそ、「多様性」の時代には、相応しいのではないかと思います。

その上で、私は多くの製麹ケースにおいては、種麹の利用をお勧めしています。

そもそも本来の自然とは何か

そもそも、「本来の自然」とは何でしょうか?「稲作の伝来」と言う言葉があります。「伝来」ということは、米(イネ)は、そもそも日本列島に存在した植物ではありません。しかし、棚田とか里山とか、「米(イネ)」および「田園風景」は、多くの場合、「日本の本来の自然」とされることが多いようです。

この話を拡張すると、縄文民族と弥生民族、どっちが本来の日本人?とか、外国籍の人は何世代住んだら「本来の日本人」になるのか?と言う問題にも接続してきます。

そもそも、麹菌(アスペルギルス・オリゼー)自体、ヒトが地球上に現れてから、ヒトの何らかの干渉があって種として確立したと考えられる微生物です。その意味では、「天然の発酵食品」って、そもそも存在するのでしょうか。

先日、「問いの立て方」の著書、京都大学の宮野公樹先生とお話しする機会があり、その中で、「人間は自然から生まれた、であれば、人間が産み出したものも、全て自然であるはず。なぜ、人間が作ったものだけ特別扱いするのか。」との言葉をもらいました。


そう、ビーバーがつくる木の枝のダム、と、人間が作ったコンクリートのダム。コンクリートだって、砂と水、自然のものから出来ています。

ビーバーが木の枝で作ったダムは自然で、人間が作ったコンクリートダムは非自然。この非自然を「人工」と言う言葉で置き換えるなら、ヒト(ホモ・サピエンス)だけを、「自然」から切り離した概念として捉えるのはなぜでしょうか。

我々、「ヒト」もまた、本来、自然の一部、脊椎動物の中に哺乳類というグループが生まれ、その中に霊長類が生じ、そのなかにホモサピエンスという種が出来た。すなわち、自然から発生したものじゃないかと考えます。その「自然」からうまれたヒトが作ったものであるならば、ビーバーが造るダムや、トリが作る巣のように、コンクリートだろうが排気ガスだろうが添加物だろうが、すべて「自然」であり「天然」じゃないかという問いです。

「いやいや、それは暴論でしょ、さすがに」と思う人もいるかも知れません。むしろ、そういう人が多いと思います。

では、なぜ、暴論だと思うのか。やっぱり、そこには「人間がコントロールできないものへの畏れや敬意」みたいな感情があるからで、その感情は大切にしたいと思います。

その上で、ビーバーの小枝のダムと、ホモサピエンスのコンクリートのダムは何が違うのか?自分は、どこにラインを引いて、世の中を認識しているのか。そこに自覚的になることで、ボーダーラインの引き方は一つではないことに気づきます。そして、人それぞれに、様々なボーダーの引き方があり、そこに優劣のような関係はないと気づくことが、「こうでなくてはいけない」「こうあるべきだ」と言う思考からの脱出に繋がると思っています。

ある人は、人類登場以前の自然こそを『本来の自然』とし、ある人は、稲作伝来のころを『本来の自然』とし、ある人は、江戸時代ぐらいを『本来の自然』として、ある人は人間が蒸気機関などの動力を得る前を『本来の自然』とし、ある人は、”自分が生まれたとき”を『本来の自然』とし、ある人は、この2021年現在の地球だって『本来の自然』であるとする。

私は、考え方が色々あって良いと思います。その、それぞれが思う『ここが本来』というものがバラエティ豊かに集まり、それぞれの活動があるからこそ、我々、ヒトは『自然と人々の多様なあり方に触れることが出来る』分けです。だからこそ、それぞれの信ずるところの『本来の自然』を守るために活動をされている方に、心からの敬意を表します。

こと、発酵に引き戻して考えると、その違いの多様性に気づくことは「天然蔵付き菌」と「種麹」の違いの理解、ひいてはテロワールなどの理解にも繋がってくると思います。悩んで、考えて、自分なりの解像度を、一緒に上げていきましょう。

目的・評価基準を外に求めない

『自分としてのボーダーラインの引き方に自覚的になる』と言うこと。そして、『それを絶対視しない、それぞれの引き方がある』と言うこと。この2つが大切なことだと思います。

腹に落とすには、社会の誰かに正解や基準を提示してもらい、それを自分自身や周りに当てはめていくアプローチのではなく、自問自答し、自分で考えて、自分なりの結論に自力で辿り着くというアプローチしかないと思います。

つまりは、「評価基準を外に求めない」と言うことだと思います。

評価基準は「正しさ」と、置き換えても良いでしょう。社会的に正しい、なんらかの、客観的な「正しさ」や「基準」が存在して、それを追い求めていくという考え方は、私個人的には、結局、自分の人生を自分でコントロールできなくなるので、苦しくなってきますし、まして、それを周囲に押しつけるようになると、今度は、周りが苦しくなると感じています。

個人的には、もっと、『発酵』という文化を、ゆったりと奥深く楽しみたい。その先に見えるものに辿り着きたい。

以前、こちらの記事にも書きましたが、

発酵食品から『正しさ』『べき論』を解き放ち、発酵をより豊かなアプローチで楽しむことが出来る文化にしていく。

今年は、そんな活動をしていきたいと考えています。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683