よい『努力』と、悪い『努力』を見分ける

前回の続きっぽい記事になります。

よい『努力』と悪い『努力』を見分ける、と、タイトルを打ちましたが、いきなり結論から書くと、

「こんなに努力してるのに、、、、」という感情が沸き起こり始めたら、それは悪い努力だと思います。

自分は努力してるのに報われない、あいつの方が得してる、ずるい、と妬んだり、あるいは、「自分はこんなに真面目にやってるのに報われないなんて、世の中がおかしい」と、社会や環境に攻撃の対象を向け始めたら、自分が『努力』と信じている行動は、かえって、刃となって自分も周囲も傷つけ始めていると思います。

なぜ、悪い『努力』になるのか

では、なぜ悪い『努力』になるのでしょうか。えとみほさんのこのツイートが、言い得て妙だと思います

悲壮感があるというのは、背負っているもののために闘っている分けですが、逆の見方をすれば、背負っているものが意識の中でちらついて、目の前の勝負に集中していない、とも言えます。

この状態のことを、陸上の為末大さんは、こう表現しています。

 「努力」は没頭している状態ではないので、限界を突破するのが難しい。だからこそ、「夢中」になることは選手の力を向上させるためには欠かせず、努力は夢中には決してかなわないのです。

指導者は選手を競技に没頭させるためには、どうすればいいのでしょうか。

 それは義務から選手を解放することです。例えば、「勝たなければならない」「より上の順位に行かなければならない」ということから、意識を解放させることが大事です。漫画を読んでいると夢中になれるじゃないですか。それは読んでも評価されないからです。でも読書感想文を書くとなり、評価されるとなると急に読む姿勢も変わってしまいます。
 
 アスリートの場合、上に行けば行くほど、期待値は上がりますし、義務から自分の心を解放するのは難しくなります。しかし「ここは絶対に勝つぞ!」と指導者が言うと、選手は期待に応えなければならないと思い、そう思えば思うほど、夢中からは遠ざかってしまいます。

為末大「努力は夢中に決してかなわない」 選手を競技に没頭させる指導のヒント
https://the-ans.jp/coaching/146332/

良い『努力』をしている人は、それが努力と気づいていない

そう。『夢中になっている状態』こそが、良い努力なのだと思います。そして、往々にして『夢中』の人は、それが『努力』と自覚していないです。

有名なさかなクンは、これまで5000種以上の魚を観察してきたそうです。これは、すさまじい実績だと思います。魚に興味ない人間が、仕事としてこれをやろうとしたら、ものすごい労力を必要とします。しかし、恐らく、さかなクンは、『夢中になって魚を観察し続けた結果、きがついたら5000を越えていた』というほうが、本人の感覚には近いでしょう。(違っていたらごめんなさい)

端から見たらものすごい『努力』に見えることを、本人が努力と自覚せず楽しんでやっている状態を『夢中』というのだと思います。

そして、『夢中』は、人に指示されたからといって、出来るものではありません。『○○に夢中になりなさい!』と説教されて、楽しんで、夢中になることが出来るでしょうか?

そう、良い『努力』とは『夢中』のことなのです。

『夢中』と『努力』の違いは目標と計画の設定

『夢中』と『努力』の違いは何かというと、計画の有無だと思います。

例えば、「洋画を100本観て英語力が付く」という現象があるとします。この時、「洋画が面白くて、気がついたら100本を超えていた」となるのが『夢中』「英語力を付けるために、週に1回時間を決めて、洋画を見るようにしている」のが『努力』ではないでしょうか。

この違いは計画の有無です。『夢中』には、予め設定・計画された達成目標がありません。到達点はやってみた結果。

つまり、「目標と自分の差を認識して、期間を設定し、やるべきことをタスクとして分解しこなしていく」というプロセスの有無が、『夢中』と『努力』なのではないかと思います。

予め設定された計画がない、すなわち、限界を定めていないがゆえに、『夢中』は限界を突破できるのです。

それが、最後の強さで出る。


 私たち日本人は歯を食いしばれ、頑張れ頑張れ頑張れっていう文脈を流されて育ってきているんですね、乗り越えろって。

 それを乗り越えたら強くなれるとか成長できる、っていう文脈の中で育てられている。
 
 スペインの子たちって、エンジョイエンジョイエンジョイ、ディスフルーター(楽しもう)、ディスフルーター(楽しもう)って言われてきているんですよ。
 ずっとエンジョイのシャワーを浴びせられてきている子たちは、やっぱりトップ選手になったとき、最後の最後のところでやっぱり強い。

 エンジョイって言われて育ってきている子は強いなって思ったんですよ。
本当のアスリートの強さって、“エンジョイシャワー”を浴びてきている子で、“頑張りシャワー”を浴びてきている子じゃない

https://www.synchronous.jp/articles/-/501

 エンジョイはダラダラ手を抜いてヘラヘラすることではなくて、その瞬間その瞬間を精一杯取り組んで、自分のために自分の成長のために、チャレンジのために集中してやりなさいっていうことであるはずなのに。

 日本はそのエンジョイの解釈を間違っているのと、頑張れば強くなる。相手が30周走るなら、俺は31周走っているみたいな。そういう何か根性論から出てきているじゃないですか。

 それは苦しいだけなので、最後の最後でない力を振り絞るときに、やっぱりそこではエンジョイって言われてきているアスリートにはかなわない

https://www.synchronous.jp/articles/-/501

私は、人間の可能性を引き出すのは、『努力』ではなく『夢中』だと思います。

それは、『夢中』か『努力を辞められないだけ』か

最後に、『夢中』と『努力』の境目になる現象について、話したいと思います。

再び、為末大さんの文章を引用します。

http://tamesue.jp/blog/archives/think/20190318

 外から練習熱心に見えている選手でも、競技力が向上するから練習を継続しているのではなく、休んでしまうことが恐ろしいから練習をしているだけの場合がある。
 
 こういう選手は努力家というより休む勇気がないというのに近く、人生で一度も休んだことがないからただ休んでいないだけだ。

私のパフォーマンス理論 vol.11 -休み方について-
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20190318

もう、これに尽きてしまいますが、『夢中』になっているから、努力が継続しているのか、それとも、『休む怖さ』に追い立てられて行動しているのか。

それは、最初の話につながります。恐らく『夢中』になっていれば、それは自分のためだからネガティブな感情は出ない。ただ『怖さに追い立てられて』やっているものは、僻む感情が出てしまう。その差に繋がると思います。


では、なぜ、『夢中』になること、が、広まっていかないのか。それは、『評価の自給自足』が出来ていないからだと思います。この話は、次回しましょう。

追記;次回を書きました。


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