よい『努力』と、悪い『努力』を見分ける
前回の続きっぽい記事になります。
よい『努力』と悪い『努力』を見分ける、と、タイトルを打ちましたが、いきなり結論から書くと、
「こんなに努力してるのに、、、、」という感情が沸き起こり始めたら、それは悪い努力だと思います。
自分は努力してるのに報われない、あいつの方が得してる、ずるい、と妬んだり、あるいは、「自分はこんなに真面目にやってるのに報われないなんて、世の中がおかしい」と、社会や環境に攻撃の対象を向け始めたら、自分が『努力』と信じている行動は、かえって、刃となって自分も周囲も傷つけ始めていると思います。
なぜ、悪い『努力』になるのか
では、なぜ悪い『努力』になるのでしょうか。えとみほさんのこのツイートが、言い得て妙だと思います
悲壮感があるというのは、背負っているもののために闘っている分けですが、逆の見方をすれば、背負っているものが意識の中でちらついて、目の前の勝負に集中していない、とも言えます。
この状態のことを、陸上の為末大さんは、こう表現しています。
良い『努力』をしている人は、それが努力と気づいていない
そう。『夢中になっている状態』こそが、良い努力なのだと思います。そして、往々にして『夢中』の人は、それが『努力』と自覚していないです。
有名なさかなクンは、これまで5000種以上の魚を観察してきたそうです。これは、すさまじい実績だと思います。魚に興味ない人間が、仕事としてこれをやろうとしたら、ものすごい労力を必要とします。しかし、恐らく、さかなクンは、『夢中になって魚を観察し続けた結果、きがついたら5000を越えていた』というほうが、本人の感覚には近いでしょう。(違っていたらごめんなさい)
端から見たらものすごい『努力』に見えることを、本人が努力と自覚せず楽しんでやっている状態を『夢中』というのだと思います。
そして、『夢中』は、人に指示されたからといって、出来るものではありません。『○○に夢中になりなさい!』と説教されて、楽しんで、夢中になることが出来るでしょうか?
そう、良い『努力』とは『夢中』のことなのです。
『夢中』と『努力』の違いは目標と計画の設定
『夢中』と『努力』の違いは何かというと、計画の有無だと思います。
例えば、「洋画を100本観て英語力が付く」という現象があるとします。この時、「洋画が面白くて、気がついたら100本を超えていた」となるのが『夢中』「英語力を付けるために、週に1回時間を決めて、洋画を見るようにしている」のが『努力』ではないでしょうか。
この違いは計画の有無です。『夢中』には、予め設定・計画された達成目標がありません。到達点はやってみた結果。
つまり、「目標と自分の差を認識して、期間を設定し、やるべきことをタスクとして分解しこなしていく」というプロセスの有無が、『夢中』と『努力』なのではないかと思います。
予め設定された計画がない、すなわち、限界を定めていないがゆえに、『夢中』は限界を突破できるのです。
それが、最後の強さで出る。
私は、人間の可能性を引き出すのは、『努力』ではなく『夢中』だと思います。
それは、『夢中』か『努力を辞められないだけ』か
最後に、『夢中』と『努力』の境目になる現象について、話したいと思います。
再び、為末大さんの文章を引用します。
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20190318
もう、これに尽きてしまいますが、『夢中』になっているから、努力が継続しているのか、それとも、『休む怖さ』に追い立てられて行動しているのか。
それは、最初の話につながります。恐らく『夢中』になっていれば、それは自分のためだからネガティブな感情は出ない。ただ『怖さに追い立てられて』やっているものは、僻む感情が出てしまう。その差に繋がると思います。
では、なぜ、『夢中』になること、が、広まっていかないのか。それは、『評価の自給自足』が出来ていないからだと思います。この話は、次回しましょう。
追記;次回を書きました。
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