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評価を自給自足しよう

前回の『良い努力』と『悪い努力』の話の続きと言えば続きです。

評価の自給自足と言う概念があります。

「男性は自尊感情を自給自足するのが苦手なのではないか」という問題です。自分で自分を満たせない。だから他者からの承認や賞賛を必要とする。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95036?page=3

「男性」としていますが、「女性」にも起こりうると思います。ただ、2022年現在、まだまだ男性が社会の中心にいる社会構造では、『男性』の方に顕著に出やすい傾向かなとは思います。

日本人はキョロキョロする

丸山眞男が著書「日本文化のかくれた形」の中で、日本人の基本的な態度は「きょろきょろすること」だと指摘しています。常に自分の外側に、自分より上位のお手本があって、いかに、そこに追いつくかという態度です。

ですので、そのお手本と自分との差を感じ取り、「この差をどうやって埋めるか」ということが、人生の基本になってきました。これは、会社経営でも政治でも、「脱亜入欧」「欧米においつけ」というのが基本態度になります。

バブル期、経済でアメリカに追いつき、一瞬追い抜いたとも言える状態になったあと、日本全体が目標を見失ったところで明らかに混乱して、よく分からないお金の使い方をしていたのは、40代以上の人なら記憶に残っていることではないでしょうか。

そして、いまは、「SDGs」や「価値観のアップデート」という言葉で、外国で提唱された価値観を「これが世界標準だ」と、「きょろきょろ」して、日本に輸入しようとしています。

私はSDGsは悪い価値観とは思いませんが、構造としては、「きょろきょろ」して「これがどうやら世界の標準の価値観らしいから真似しなきゃ、導入しなきゃ」となっている構造は指摘しておきます。

つまり、(主語が大きいことを承知で)日本はそもそも「きょろきょろ」して、キャッチアップ型社会であり、目標/評価基準は常に外から与えられるものという感覚が強い社会なのだと感じます。

このあたりの解説的議論は、山口周さんと中川淳さんの対談本に詳しいです。

これまでの社会で評価された人

そのようなキャッチアップ型社会、「きょろきょろ」社会においては、学校や企業などの組織やコミュニティ、社会の中で役割を果たし、責任を全うしようとする人が評価されました。

そして、自分の属するコミュニティや組織など、その場の状況における暗黙のルールや評価基準、義務とされていることなどに聡く、組織の安定のため、まず、いち早く義務に従い、責任を果たすことを良しとするタイプです。

そのため、定石、公式、原理原則、一般常識などには、責任感を感じながら細部まで把握し、状況に合わせて「ここにはこういう常識があります」「この世界では、これは、こういう風に使われています」など、必要に応じて、主に過去の経験やキャリアから、どんな原理原則が適応できるのかを直ぐに判断し、辞書のように、その細部における知識を引っ張り出すことができるタイプといえます。

個人個人が組織のために貢献することで、秩序のある安定した社会を築きたいと思っており、正解が与えられている組織や社会においては、心強い責任者となるタイプです。

しかしながら、秩序と安定が優先され、目的化するあまり、与えられた価値観や常識、ルールから外れないことに注意が向かいすぎ、そもそも、その、外部的に『お手本』から与えられた価値観や社会常識、ルールなどについて、意義や意味合いを深く考えたり、批判的懐疑的に見つめたりすることが苦手なタイプとも言えるでしょう。


むしろ、『お手本』から与えられた価値観や社会常識などについて、意義や意味合いを深く考えたり懐疑的に見つめたりする行為自体を、「自分の責任を果たそうとしない、社会秩序に反する行為」として嫌悪するようにさえなることもあります。

つまりは、自分の持ち前をしっかりと守ることで全体がうまく回ることを大切にしており、特に企業などの組織や社会においては、自分も率先してその場の常識や規律を守ると同時に、他人にも厳しく守らせ管理するマネジメントを行い結果を出すタイプ。

目標がはっきりしている、社会常識や方向性が外の『お手本』から与えられ、その『お手本』にキャッチアップしていく社会において評価されてきたのは、このような人たちです。

評価を自給自足できなくなる理由

そして、このような価値観の社会では、評価の自給自足はとても難しくなります。

業界全体の権威者であったり、師匠や先生と呼ばれる人だったり、あるいは組織の年配、上司など、『目上の権威』から示された『お手本となる指針や常識』に疑問を挟んで立ち止まることなく、『お手本』を受け入れ、即時実行で成果を出すことに邁進することが評価される状況では、当然ながら、客観的に示される評価が、自分の存在価値を決めます。

その裏には、『社会のために貢献したのだから、その貢献が正しかったという証として、社会は自分のために何らかの客観的評価・見返りを与えてくれるはずだ』という、信念というか期待のようなものが流れています。

客観的に示される評価としては、分かりやすいのは『給与』などの報酬体系でしょう。社会からのその人の評価は年収で表される、と言う信念は、一部に根強いものがあります。

『報酬』は関係ない、と思ったとしても、『役職』などの社会的地位によって自分の立場を確認する人も多いでしょう。企業においては組織内人事的で抜擢を受ける、地域社会においては役職に推薦される、などが、自分の評価の確認手段になりがちですし、また、『報酬』や『地位』そのものが、精神的な見返りとして、自分の存在価値を、自分に対して保証するものとして機能します。

そして、『報酬』も『地位』にくわえて、『扱い』でそれを確認する人もいます。自分はこれだけ貢献したのだから、相応の『扱い』をして欲しい。まして、自分が『お手本』となる目上の権威を尊重して大切に扱ってきた人ほど、今度は自分が『お手本側』『目上側』だと自覚したとき、『目上として敬って欲しい』という欲求がむくむくと脇き、『目上として敬って欲しい』が『目上として敬われるべきだ』と進化するようになります。

これが、『評価の自給自足が出来ていない状態』といえます。

評価の自給自足が出来ない人はどうなるか

評価の自給自足が出来ない人は、評価を得るために上下関係の構造を必然的に求めます。上下関係/ヒエラルキーが明確な企業人のうちはそれでも、自分の評価が充足されるから目立ちません。

ですが、退職後に地域社会に入ったときや、あるいは在職中でも地域活動、趣味文化活動をするときなどに、不必要に、コミュニティの中で、上下関係構造、組織構造を作ろうとしてしまいます。

その場の常識や暗黙のルールは何か、、お手本たる先行者が何を正解としていたかに聡く「きょろきょろ」することを続けてきた人にとっては、『正解』の無い状態、『正解を自分で決めて良い』という状況は、非常に居心地が悪く、無秩序で混乱が増大している様に感じ、不快感や不安感、苛立ちを覚えてしまいます。

重くなると、その苛立っている自分の精神の弱さに対して苛立ちを感じるというループになり、かといって、社会的立場として弱音を吐くことも出来ず、孤独感さえ感じるようになります。

ここで、誤解しないでいただきたいのは、私は『目上』は敬うべきだと考えています。

長く続いてきた産業には、それだけの理由があり、また、長く生きてきた人は、それが例え狭い企業社会の出世競争であったとしても、何かに打ち込んで努力をし、そのために、大なり小なり何かを犠牲にする選択もし、理不尽や矛盾を飲み込み、苦労と哀切が積み重なってきました。

例え、それが今の価値観に合わなかったとしても、一人の人間が一生懸命生きてきたこと、年長者であればその時間が自分より長いわけですし、役職上位者であれば、より広い範囲の責任を引き受けてきたわけです、そのことに対し敬意のような感情が生じるのは、私にとっては自然なことです。

よく、中学生や高校生がくらいが、「たかが1年違いで先輩面して」といいますが、例えば、4月1日に入った野球部入部1日目の1年生と、それを迎える2年生では、少なくとも、野球部において積み重ねた歴史は365倍違うのです。私は、そのことに対して、敬意や尊重の感情を持ちたいと思う主義です。

『努力』から『夢中』に、『頑張れ』から『エンジョイ』になるために

さて、ここまで書いてきて分かるかと思いますが、『努力』から『夢中』に、『頑張れ』から『エンジョイ』になるために必要なことは

『評価軸を社会に求めないこと』、すなわち『自分の軸』を持つことです。

自分の評価を『社会から認められる人間になる』というふうに、認めてもらう相手を外部に求めない。『”社会から認められる人間になった自分”を褒める』のではなく、前半部分は切り捨てて、『自分を褒める』、自分の価値は自分で認めていくということが、

『誰かのための努力』から『自分が極める夢中』になり、『責任のために頑張る』から『自分のためにエンジョイ』にかわるためのマインドセットになるのではないでしょうか。

坂本龍馬の有名な言葉があります

世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る

この精神こそが、評価を自給自足出来るようになるためのマインドセットだと思います。




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