電車内や人混みで喉がつっかえ息苦しくなる(パニック障害)際の対処法

緊急を要してこの記事を読んでいる方の為に先に要点を書きます。


・舌を口の中で前後左右にペロペロと動かす


これだけです。前後で30回、左右で30回の様に分けて行ってください。喉の緊張がほぐれ、呼吸が楽になります。前後の方がより有効だと思います。

あくまでも私が個人的に見つけた応急処置の様なものなので万人に有効かは全く分かりませんが、私自身の辛い経験から少しでも多くの方の役に立てばと思い書いております。基本的に無理をなさらず速やかに心療内科にかかってください。


ここで私のパニック障害になった経緯などを書いていこうと思います。辛い思いをしているのが一人だけではない、また克服した人がいると認識することで少しでも治療の手助けになれば良いなと思います。

パニック障害になったキッカケと完治するまで


・自己紹介

現在、私は外語大学に通う一年生です。韓国語を専攻しております。私がパニック障害のキッカケ(と思われる)を経験したのは浪人時代の冬、入試前でした。高校は理系を専攻していて早稲田の創造理工を目指して勉強していたのですが、将来理系職で働くビジョンが浮かばない(創造理工も文理混合に近いですが)という理由で現役の冬に東京外国語大学に志望を変更しました。もちろん文系と言えど1ヶ月で国立の壁は高く(特に世界史Bがネックでした)覚悟しておりましたが浪人する事になります。

・プレッシャーとストレスと罪悪感

人生を大きく左右される(?)瞬間が訪れたのは浪人中の電車内(田園都市線)にてでした。その頃私は予備校の帰り、というわけではなく遊びに行った帰りの出来事です。私は元々パソコンでゲームをするのが好きで中学生の頃から長い事やっていた(韓国語を専攻した理由でもあります)のですが、浪人生という立場でゲームなど言語道断という両親の意向で自宅でのゲームが禁止されておりました。当時ゲームしかストレス解消法がなかった私にとってゲーム禁止ほど辛い事はなく、休みの日は両親に内緒でゲームが出来る所へ通っておりました。もちろん罪悪感が非常にありましたが、一種の中毒の様な状態でゲームをしている最中は志望校判定など忘れて熱中していました。
そんなある日の帰り、コロナ禍での出来事です。マスクをした電車内というものに元々息苦しさを感じておりましたが、周囲からの怪訝な視線に自分の呼吸が荒く、周囲に不快感を与えているのではと不安を覚えました。荒い鼻息を抑えようと努めていると次第に酸欠感が増してきて、耐えきれなくなった私は周囲など忘れて深呼吸を始めますが、一向に酸欠感は治らず、むしろ目を開けているにも関わらず視界が周辺から暗くなり始めとうとう何も見えなくなりました。それにつられるかの様に耳も聞こえなくなりピープ音の様な音が聞こえてきた時、死を覚悟しました。おもむろにマスクも外していたと思います。どんなに呼吸をしても酸欠感は治りませんでした。周囲に助けを求めようかとも思いました。しかし救急搬送でもされればゲームをしに行っていたのが両親にバレると思った私はそれだけは阻止しようと必死に自我を保ちました。立っているのが精一杯でした。夕方の満員急行でしたので駅に中々着かず、とても長く感じました。たまプラーザでよろけながら降りたと思います。意識朦朧ながらパスモでポカリスエットを買ってベンチで飲みました。何とか意識を回復して家に帰ったと思います。正直あまりよく覚えていません。家に帰っても何事もなかったかの様に振る舞っていたのはよく覚えています。

・電車に乗れない

翌日すぐに自身の異変に気が付きました。電車に乗ると喉が突っかえ、呼吸が思う様に(当初は全く出来ませんでした)出来ないのです。すぐにスマホで調べるとパニック障害という症状であると分かりました。両親にキッカケは伏せてその旨を伝えましたがまともに取り合ってもらえずパニック障害を抱えた浪人生活がはじまりました。
電車は苦しいの次元の遥か上をいっていたので一駅毎に降りて、またコロナ禍ですので体調不良の様子は見せない様、呼吸を整えて予備校に通っていました。そしてそのような生活に限界を感じ次第に行かなくなりました。

・試験が受けられない

受験期後半は予備校に通わなかったのでぶっつけ本番の様な形でセンター試験を迎える事になります。電車に乗れないのなら試験も同様酷いものでした。正直この辺の記憶が曖昧ですがセンターは本当に重要だという認識でなんとか耐えましたが結果は国立に出願出来るレベルの出来ではなく、出願していた他の滑り止めは数校試験会場には行かず時間を潰していた記憶があります。

・なんとか大学に合格するも入学式で死にかける

国立は無理でしたが、第一志望の韓国語専攻に合格したのでストレスやプレッシャーからは解放された日々が続きました。あまりまともに取り合ってくれない両親からも、入試のプレッシャーだろうからそのうち良くなると言われていて私自身も希望通りの新生活に期待に胸を膨らませていました。
しかし、現実は残酷でした。期待に胸を躍らせた入学式になんとか出席するも、長すぎる学長挨拶の際に酸欠感が酷く、失神寸前にまでなってしまいました。あまりに辛い症状は自身が思い描いていた大学生活とは異なるものになるのではないかと思わせ、途方もない悲しみに包まれました。

・心療内科の予約が2ヶ月待ちで絶望

症状が一向に改善せず、またパニック障害を抱えてなんとか入学した大学も授業をまともに受けられる自信はなくなり、ただ合格すれば治るだろうという期待も儚く消え去り、とうとう心療内科の予約をする旨を両親に伝えました。なぜ今まで心療内科にかからなかったのかというと、特に父親から心療内科に行けば薬漬けにされるなどと言われ、自身でも知らず知らずにその様な考えがあったからです。両親も事の重大さを理解したのか、心療内科への予約を渋々承諾するのでした。私も心療内科にかかれば治る病気だなどという情報をインターネットから入手しておりましたので、授業が始まる前に完治すれば無事大学に通う事が出来ると考えていました。
しかし、また期待通りに事は運ばず心療内科が2ヶ月待ちであると言われてしまいます。その様では確実に授業には間に合わず、休学まで考える事になりました。

・応急処置で飲んだ半夏厚朴湯が少し効いた

どうしても大学に通いたかった私は市販の漢方である半夏厚朴湯の存在をインターネットで知りました。藁にも縋る思いで飲んでみると、多少喉のつっかえ感が減った気がしましたが、完治という程の効果はありませんでした。しかし、喉のつっかえ感が減ると呼吸が楽になるという発見が後の舌を動かす体操の発見へと繋がります。

・ペロペロすると呼吸が楽だと気付き、次第に通常に

半夏厚朴湯による喉のつっかえ感の減少が呼吸の手助けになっていると気付き、とある仮説を立てました。それは、パニック障害は特定の場面において極度の緊張状態になり喉に力が入り、上に持ち上がる事によって呼吸困難を引き起こしているという仮説です。それはでは呼吸困難も脳の異常による症状だと思っていましたが、試しに喉の緊張をほぐしてみてはどうだろうと考えました。
一番最初に試したのはガムでした。すると少し呼吸がしやすくなったのをよく覚えています。まだ完全に呼吸が出来るという事はありませんでしたが、仮設に大きな可能性を感じました。
次に電車内で水を飲んでみました。すると水を飲んだ直後は非常に呼吸が楽だと気付きました。ガムとの共通点を探すと、喉が動いている事に気が付きました。それでは、喉が動くよい運動がないかと色々試しているうちに、舌を前後左右に動かすと喉がよく動く事を発見しました。すぐさま電車で試すと、どうでしょう、昔を思い出す程の呼吸のし易さでした。緊張はありましたが、呼吸が楽という事がどんなに快適かと身に染みました。舌を動かすと呼吸が楽だと気付いてから徐々に自信がつき始め、繰り返してるうちに緊張感も無くなってきて現在に至ります。昔の、普通の通学に戻ったと思います。結局私は心療内科に通わずにパニック障害(かも診断されていませんが)を治したました。もちろん専門の医者にかかった方が良いとは思いますが、私の様に中々予約が取れない方は応急処置としてでも是非試してみて欲しいです。



パニック障害になって良かったこと。まとめ

完治した今になったからこそ言えますが意外にもパニック障害になって良かったなと思う事もあります。それは、弱い立場に立つ事が出来る様に少しはなれたかなと思う事です。幼少の頃から友人は多く、スポーツも勉強もやれば出来る、女の子から好意を寄せられる事もあるという順風満帆な人生でしたが、自分の力ではどうする事も出来ない事が世の中には存在して、また中々理解されない事もあるのだと理解できました。国立大学には行けませんでしたが、これも私の人生において必要な事だったのかと思ったりもします。現在は大学が始まってまもないですが、早速友人が出来たり、学科の女の子と軽いデートが出来る様になりました。私の様な辛い思いをしている人が少しでも減れば良いなと思いnoteを作成しました。パニック障害は完治する病気です。当時極端な考えも浮かびましたが、今は考えられない程楽しく幸せな大学生活を過ごしております。パニック障害を抱えた皆様が1日でも早く完治さ、幸せな生活が取り戻せる様、同じパニック障害に苦しんだ仲間としてまた克服した身として切に願っております。


最後まで読んでいただきありがとうございました。








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