命を救うだけが医療の役割じゃない
高2の夏に自宅で介護していた祖父が亡くなった。
僕の誕生日だった。
その日、僕はこれまで生きてきた人生の中で、一番泣いた日だった。
なぜ泣いていたのかは今は思い出せない。ただ覚えているのは、僕が朝起きたときにひっそりと自宅で息を引き取ってた祖父の生暖かい手の感触だ。
その感触に祖父がまだ生きているような感覚を覚えた。目の前から大切なものがなくなった喪失感と自分の無力感から泣いていたような気がする。
それから僕は医学部を目指し、医学部6年生になった今年、祖母が亡くなった。
心臓に持病を抱えていた祖母は、肺炎にかかって病院に入院し、2週間後に息を引き取った。僕は死に目には会えていないし、僕が医師になって主治医として診ることもできなかった。
でも祖父のときとは違って、泣くことなかった。
大切なものがなくなったという喪失感と無力感は確かにあった。
実家を離れて暮らしている分、祖父より何かしてあげる機会は少なかったし、医師になっていればもっとできたこともあったかもしれないと思ったから。
でも泣くことはなかった。
その理由はなぜだったんだろう。
祖父の方が好きだったからという理由じゃない。祖父とはよく将棋をしていたが、祖母とはよく一緒にご飯を食べた。精神的に成長したからという理由も少し違う。高校生だった僕も今の僕もほとんど泣かないし、むしろ年をとった今の方がアニメや映画で感動して泣くことが増えた。
ますます理由がわからない。
家族が亡くなっていく中で、僕は医療の役割を改めて考えた。
「医療の役割は命を延ばすことではない」と最近僕は思っている。
正確には、医療の役割は命を延ばすことだけではないということ。
人の死と戦うことが医療の目的なら、どんなに病気を治してもいつか負けるときがくる。人は絶対死ぬのだから。
そう考えると、死と戦うことだけが医療の役割じゃないはずだ。
では医療の役割は何なんだろう。僕なりに考えてみた。
(祖父の死で泣いて、祖母の死で泣かなかった理由は何だろう)
そこにヒントがあると思った。
それは、、、”納得感”の違いだった。
祖母の場合、腑に落ちていた死だった。
どういうことか。
祖母は大動脈弁狭窄症という心臓の病気にかかっていた。心臓の病気は何度も息切れや呼吸困難、胸痛などの症状で入院する。そのうち何度かは治療することでよくなる。でも、完全に元の状態に戻るわけじゃない。できないことが少し増えて家に戻ってくる。歩けていたはずなのに歩けなくなる。自分でお風呂に入れていたのに入れなくなる。その繰り返しを何度かするうちに体が耐えられなくなり、力尽きる。このような経過をたどることが一般的だ。
僕は大学の勉強でそれを知っていた。
実際、祖母は何度も入院して、できないことが増えて自宅に帰ってきた。主治医の先生に心臓の超音波の動画を見せられ、今度こそ退院は厳しいだろうと言われた時も、一息ついた後に、納得した。
でも、祖父の死は腑に落ちない死だった。
僕は何も知らなかった。どういう病気でどうやって死ぬのか。死ぬとはどういうことなのか。何をすれば生きている可能性があったのか。もっと早めに病院に行っていれば助かったかもしれないのか。僕にできることは何だったのか。僕の責任は何だったのか。
だから自分を責めていた。僕ができることがあったはずだと。
今になってわかる。
実際は僕できることなんてほとんどなかった。できることはなかったのに、自分を責めていた。
「もしかしたら祖父を救えていたのかもしれない」って。
あのとき誰かが、「そうじゃないよ、君のせいじゃないんだよ」って言ってくれたなら、僕も救われたかもしれない。
究極的には、どの死も納得できるものではない。
人はいつか死ぬものと考えたとき、僕たちは、いつかは納得して、前に進まなければいけない。納得するために、僕たちが準備できることはあるはずだ。どうやって人は死ぬのか。何の病気にかかって死ぬことが一番理想的なのか。どういう検診を受けておけば、今の医療で一番死ぬ可能性が低くなるのか。家族が倒れて介護が必要になったときのために今できることは何なのか。この病気になったときに本当に正しい最新の医療は何なのか。この先生を信じて大丈夫なのか。
少しでも知っていたなら、腑に落ちる感覚は全然違うはずと思う。
腑に落ちたいなら、自分の中で咀嚼して、苦難を乗り越えていく可能性が出てくる。
祖父が死んだときの僕のようにありもしない責任感を感じて苦しむことがないように、「君のせいじゃないんだよ」と言うことも、医療の役割の一つなんじゃないだろうか。
病気や死といった苦難が本当に腑に落ちるお手伝いをすること。
納得して前に進む後押しをすること。
つまりは、人の人生を救うこと。
僕は、それも医療の役割なんだと思う。
命を延ばして、命を救うことだけではなく、人の人生を救える。
そういう医師に僕はなりたい。
来月は医師国家試験だ。
そのための一歩を僕は踏み出す。
(photo by hiroki yoshitomi)
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