レッテルを張ることとタグ付けすること
見出し画像

レッテルを張ることとタグ付けすること


僕ら医療者はいつも患者にタグ付けをしてしまう。

「喫煙歴のある60代男性の呼吸困難」、「独居の80代男性の認知症患者」といった具合である。前者が救急外来に来た場合は、COPD(慢性閉塞性肺疾患)かな?心不全や肺炎も考えないといけないななどと考える。後者の患者が外来に通院している場合は、生活が一人でうまくいけるのか、連絡が取れる親族はいるのか、そろそろグループホームの入所時期だろうかとゆくゆくのことを心配する。多くの場合はそのタグ付け通りに、COPDの急性憎悪と診断し、入院治療を開始するし、認知症患者の退院調整に難儀する。医療者は、タグ付けをすることで、カテゴリー化し、仕事をより円滑に行うとともに、もれなくダブりない診療につなげている。当然、それは患者にとってもポジティブなことである。

一方で、タグ付けがネガティブに作用することがある。「生活保護受給者」と言われれば、わがままなだらしない人と考えてしまうし、「インスリン導入の教育入院してきた糖尿病患者」は自分に甘い人であると考えるし、「精神疾患の既往がある患者」であれば症状も精神的なものではないかと考えてしまう。タグ付けがレッテルになってしまうのだ。レッテルとは、人物に対して一方的・断定的に評価をつけることである。一方的、断定的に評価を下すことで、本来その人物が持っていた特性とは異なった評価やある視点からしか見えていない特性を大きく取り上げて偏った評価をつけてしまうことにつながる。異なった評価や偏った評価が、患者の言葉を間違って捉え、本来の患者の希望と異なった方向に舵を切ってしまうことになりかねない。断定的な判断は、思考停止になり、医学的に間違った判断を下すことにもつながる。

レッテルは、一方的・断定的なものである。断定とは、対等な関係から生まれるものではない。関係性が対等であればレッテルは張られない。医師―患者関係という父権的な権威勾配があるからこそレッテルが張られる。レッテルは、医師ー患者関係を利用した誤った判断といえる。レッテルが権威勾配を強化するからこそ、医師は患者を一方的に判断し、判断された患者は医師に物が言えなくなってくるのである。

ではレッテルを張らないようにするために、どうすればいいのだろうか。医師―患者、治すー治されるという関係性にはどう推して関係性の勾配はついてしまう。そこには医療情報の非対称性が横たわっているからだ。それでも関係性の勾配を滑らかにするためになにかできないだろうか。

僕は”タグ付けを増やしてしまえばいい”と思っている。タグ付けを強化するのではなく、増やす。つまり、「インスリン導入の教育入院してきた糖尿病患者」は、食事療法の指示が守れなくても、家に帰れば立派な父親かもしれないし、仕事でバリバリ働いているかもしれない。家庭と職場で役割を全うしているからこそ甘いものをついつい食べてしまうのかもしれない。好きな食べ物はいちごパフェだったりするかもしれない。そう思うと、愛らしいような、憎いような、少し理解できるような存在になってくる。「独居の80代男性の認知症患者」も今でこそ認知症のBPSDでご近所さんに煙たがられていても、以前は立派な教師だったり、好きな曲は孫が好きなジャスティンビーバーだったりする。その長い人生にいくつも出来事や関心というタグがあり、タグによっては魅力的に感じてくる。かわいらしい方だなぁと感じてしまうだろう。

本来、医師と患者は、生まれ育った環境も違うし、働いている場所も違う。お互いがわかりあえない者だとしても、その噛み合わない会話も、多様なタグがつけば、どこか接点が出てくるかもしれない。会話の糸口が見えてくるのかもしれない。本来そこにあった関係性の勾配がネットワークのように多様化してくる。認知症のおじいちゃんの教師としてのタグが自分の人生相談の悩みにのってくれるかもしれない。糖尿病患者のおすすめするいちごパフェがめちゃくちゃおいしいくてついつい頬がゆるんでしまうかもしれない。関係性が崩れるとき、お互いに本音が出てくるものである。

また医師自身も非医療者によってレッテルを張られていることがある。私自身、バーで飲んでいて医師とカミングアウトすると、健康相談や病院の話が多くなる。病院だけでなく飲みに行っても医師としての仕事をしているような気分になる。同じような経験をした医療者も多いのではないだろうか。外科医、内科医としてのタグだけではなく、医師も一人の人間として多様なタグを増やしてほしい。医師としてではなく、多様なタグを持つ一個人としてまちで暮らす人と関わることができれば、医師ももっと街に出てくるのではないだろうか。患者だけでなく、医師もタグ付けを増やすことで関係性の変化が生まれてくるはずだ。

スクリーンショット 2020-11-05 23.58.31

図1 私のタグはこんな感じである

医師は医師だし、認知症患者は認知症患者である。そのタグをなくすことはできない。かといって、タグ付けもなく、患者と一個人として向き合うことにはリスクも伴うし、良好な医師ー患者関係とも言えない。今あるタグはその人の人生を踏まえた過去であり、考え方であり、人生観でもある。そのタグをひとつではなく、多く知ることができれば、その人のことが少し変わって見えるのかもしれない。

こう言ったタグ付けを増やすことは、Narrative based medichineにも似ている。病気になった理由、経緯、病気そのものについて現在どのように考えているかなどの物語から、患者が抱える問題を全人的(身体的、精神・心理的、社会的)に把握し解決方法を模索する臨床手法を指す。患者との対話と信頼関係を重視し、サイエンスとしての医学と人間同士の触れあいのギャップを埋めることが期待されている(健康を決める力より)
個人的にはNBMよりも、それぞれの人物のタグに焦点を当てることで、医師ー患者関係における関係性の変化に焦点を当てたいと考えている。

(photo by hiroki yoshitomi

★noteで記事にする他に、Twitterでつぶやいたりしています。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
守本 陽一

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。読んだ感想をいただけると、嬉しいです。引用リツイートやDM等でご連絡ください。。 サポートについては、YATAI CAFEやだいかい文庫等の地域ケア活動費に使わせていただきます。

ありがとうございます。コメントや引用RTで感想もらえると嬉しいです。
家庭医。暮らしの動線上にケアを置くことをテーマに仕事してます。一般社団法人ケアと暮らしの編集社代表理事。兵庫県豊岡市で移動式屋台カフェやシェア型図書館を運営している。共著にケアとまちづくり、ときどきアート(中外医学社)、社会的処方(学芸出版社)など。ご連絡は各種SNSのDMへ。