渋谷であることを忘れ、自分だけの贅沢な時間を過ごせる喫茶店
道玄坂にあるネイルサロンの予約時間よりも、2時間も早く渋谷に着いてしまった。
前の予定の時間配分に、ゆとりを持ちすぎてしまったので仕方ない。
私は指先の爪は短くしているので、足の爪を飾っている。
もう9月も終わりそうなサンダルも履かない季節、他の誰にも見られることのない、自分にしか見えない爪を飾る。
ふとした瞬間の空き時間は、「そういえば前から行ってみたかった場所」へ足を向けるきっかけを与えてくれる。
普段クラッシックは聴かないけれど、一度行ってみたかった場所、『名曲喫茶ライオン』へ行くことにした。
道玄坂をまっすぐ進んで、ガストを超えてすぐの路地を入って少し歩くと、グリフィンドールみたいなライオンの描かれている看板が見えてきた。
創業1926年、歴史がある。
扉にも張り紙があったが、店内は写真撮影禁止。そして音楽に集中できるように、会話も禁止というシンプルながらも空間の演出に重要な2つのルールが存在する。
店に入ると、かなり大きな音でクラッシックが流れており、本当に誰もしゃべっていないので入っただけで緊張してしまった。店員からの目配せで「空いているお好きな席へどうぞ」という言葉を感じ取り、目についた前方の座席にひとまずサッと着席。
すぐに、お水を持ってきてくれたのでホットコーヒーを注文した。
店内は、大きなスピーカーに向かうような形で座席が配置されていて、「音に向き合う場所」としてのこだわりを感じる。
クラッシック音楽は詳しくないけれど、生音のような迫力があって、コンサートに来ているような音がする。
教会のような、図書館のような厳かだけれども落ち着く空気が漂っている。席に置かれたパンフレットを見て、15時の立体音響コンサートの演奏中に入店したことを知った。パンフレットには、当月のコンサートスケジュールが記載されている。また、「全館ステレオ音響完備(帝都随一を誇る)」などスピーカーについての説明もあり、すごいものなのだという感じがひしひしと伝わる。
一人につき一つの椅子と机があり、パーソナルスペースが十分に確保されているので他の人の目を気にせずに過ごすことができる。
椅子は昔のものに多い、昔の日本人の体形に合わせた脚が短めのタイプで、現代人でも背が低めの私はこの床との距離感が好みだ。早稲田大学の大隈講堂内の貴賓室にある椅子も同じように脚が短いタイプで急に懐かしくなってしまった。
初めて来た場所なのに、入った瞬間の緊張感はどこへやら、すっかり居心地が良い。
一人で来ているお客さんが多いが、二人で来ているお客さんもちらほらいる。
もちろん、話してはならないので各々スマホしたり、本を読んだりする。
誰かと一緒にいても会話せず過ごすのも、面白いかも知れないとその様子を眺めながら思った。
コーヒーは苦めな深い味わいで、「どうぞごゆるりと」と言わんばかりに、ちまちま少しずつ飲むのに適している。
一口飲んでは、ぼんやりと内装を眺めたり、また一口飲んでは、目を閉じて音楽を聴いたり、一口の間隔を大事にできるような一杯だ。
薄暗い空間で、レトロな家具に包まれてしばらく過ごしていると「あれ、どこにいるんだっけ」と渋谷にいることを忘れてしまうような没入感がある。
それから、私はこのようなお店に行くと必ずよくチェックしてしまう場所がある。トイレだ。
トイレという空間は、その店の伝えたいことやカラーというのが表現されていることが多い。インテリアだったり、熱いメッセージの書かれた張り紙だったり、そういうところに人の温度を感じるので好きなのだ。
こちらのトイレは、男性用1つと男女兼用が1つあった。
張り紙こそ無かったが、上から吊るしてあるチェーンを引っ張って水を流すスタイルで、古き良きトイレといったような感じであった。
なんとなくスマホを取り出す気にならず、小さなメモ帳とペンを取り出して文章を書いてみたり、手持ちの本を読んだりして過ごしていたらあっという間に時間が経ってしまった。
立体音響コンサートの時間が終わると、店員のアナウンスが入った。
「続いてリクエストのショパン~~なんとか、~~なんとかバージョンです。」
どうやら、リクエストをしてレコードをかけてもらうことができるらしい。
次に来るときには、リクエストできるように、もう少し普段からクラッシックも聴いてみようか。
誰にも見られていない、自分だけの贅沢な時間を味わい尽くし、私は喫茶店の座り心地の良い椅子から腰を上げた。誰にも見られることのない足の爪を飾りに行く足取りは、とても軽い。自分だけの贅沢は続く。