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傷をめぐる冒険|2023年の読書記録

今年も読書に明け暮れた1年だった。本稿執筆時点での読了冊数は111冊。そのうち、自分の血肉になった本を厳選してまとめたいと思う。

ビジネス書や人文書、小説にエッセイなど、さまざまな本を手に取るが、「自分らしさはいかにして育まれるのか」という問いがいつも僕の根底に流れている。それを紐解くキーワードとして、弱さ/ケア/レジリエンス/想像力/虚構/生態系などにここ数年関心を寄せている。必ずしもこれらのキーワードに合致する本だけを読んでいるわけではないが、別々の場所から掘り進めたトンネルが不意に内部で繋がるように、テーマの違う本同士が奇妙な符合を見せることが多々あった。

自分らしさに限らず、あらゆる物事の問い直しは「傷を見つめる」という行為と切り離すことができない。普段身体のケアに無頓着な人が病気や怪我になって初めて身体への意識が芽生えるのと同じで、傷んだ箇所に直面しなければ、そもそも問う意義にさえ思い至らないだろう。一見自明に見える自分自身のこととなればなおさらだ。あなたは知らぬ間に、社会の中で本来のあなたらしさを傷つけられているのではないか。このような問いかけを起点に、自分らしさの問題と社会の問題を接続する独自の視点を磨くべく、日々思考を巡らせている。

今年読んだ本たちは、それぞれの形で社会や個人の傷口を提示してくれていたように思う。といっても、一面悲壮感で埋め尽くされた本はほとんどなく、必ずどこかに希望の光が差し込んでいた。

冒頭5冊は一冊ずつ取り上げており、以降はテーマごとにリスト化している。本当は一冊で一記事書けるくらい思い入れのある本たちだが、本稿の目的はなるべく多くの本との出会いを読者に提供することなので、詳細な書評は別の機会に譲ることにしたい。


ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力

昨今取り上げられることが増えたネガティヴ・ケイパビリティ。「不確実性に耐える力」といった意味合いで訳されることが多いが、現代になぜ必要なのかを示した本はほとんどなかった。その点で本書は、社会の身近な話題を論じることでネガティヴ・ケイパビリティの現代的意義に迫ろうとしている。しかも、単一の著者による著述ではなく、三人の哲学者による対話形式になっているのも肝で、この形式自体が安易な結論づけを避けるネガティヴ・ケイパビリティの特性を結果的に示している。"思考する共犯関係"を結んだ哲学者たちの話題の多岐に渡るが、社会の息苦しさの要因として、彼らは単一の言語と価値観による支配を指摘する。行き過ぎた市場原理によって内面化された自己責任論などがその一例だろう。世の中に蔓延する言葉や価値観に乗っ取られないために、本書ではたびたび「自分のことば」を立ち上げることの重要性が説かれる。複数のコミュニティに所属したり、フィクションに触れてボキャブラリーを養ったりすることで、絶えず言語と価値観を相対化しながら、積極的に"多言語話者"になり、社会に"方言"をつくること。SNSが助長するアテンションエコノミーは、すべての人になめらかな語りによる意思表明を強制させるが、たとえたどたどしくとも、自らのことばを語ることでその息苦しさに対抗できるかもしれない。ネガティヴ・ケイパビリティとは、「自分のことばを生きる力」なのだと、本書を読んで思い知らされた。

教育は社会をどう変えたのか――個人化をもたらすリベラリズムの暴力

学校教育というのは恐ろしい。学校教育は社会に出る前の初期設定を行う場所であり、その設定の上に社会の仕組みや価値観が組み上げられていく。一度教え込まれたものを疑うのは容易ではない。個人の自由を至上命題とする新自由主義に根ざした戦後教育は、我々の社会の中に自己責任の考えを強く刷り込んでしまった。「あなたがダメなのはあなたが頑張っていないからだ」という考え方が、どれだけ社会をバラバラにし、人びとを傷つけているかを考えると、僕らはずっと暴力を振るわれてきたのと同じなのかもしれない。「生きづらさ」という言葉も、本来社会で解決する余地のある課題が個人の問題に矮小化されることで生まれる感覚であり、個人の心構えやケアによってなんとか生き延びろというのは暴論ともいえる。本書では、新自由主義と戦後教育の歴史を丁寧に紐解くことで、この暴力がいかにして生まれてきたのかに迫っている。

「弱者」の哲学

実はこの本は、上述の『教育は社会をどう変えたのか――個人化をもたらすリベラリズムの暴力』の中で参照されていた文献の中の一つだ。行き過ぎた個人化への処方箋の一つとして、同書では「能力の共同性」が挙げられていた。これは能力を個人に帰するのではなく、他者や社会との相互関係の中に能力を位置付ける考え方で、『「弱者」の哲学』においては≪当の諸個人の「自然性」と他者(社会・文化)との相互関係自体≫と定義されている。ここでいう個人の自然性は、身体性とほぼ同義だ。本書では、身体的な障害という意味での弱さも広く扱いながら、人間存在と能力/障害を分離して把握することが目指されている。近代化は否応なしに生産性の向上を追求し、それが有用性の称揚を招いた。健康で能力の高いものが有用であり、価値ある存在と見做される中で、いつしか障害が個人に還元されていった。戦後の教育もまさにこの考え方の延長にある。本書では、能力を系(システム)として捉え直すことで、能力主義が助長した弱者排除の正当性に疑問を投げかけている。

ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常

幸福を求めることは、批判の余地のない絶対的正義ではないのか?と多くの人が思うだろう。この本を読むまで僕もそう思っていた。本書は、90年代以降のポジティブ心理学の隆盛が、いかにして「幸せ」をイデオロギー化し、社会の問題を個人の問題に転化してきたかについて、極めて批判的な眼差しを向けている。幸せを"科学"するとは、すなわち測定可能にすることであり、定量化するということである。数値化できるものは商品化できるということでもあり、ここで幸せが新自由主義と結びつき、「あなたが幸せでないのはあなたの努力が足りないからだ」という自己責任論が成立していく。社会の息苦しさの原因は、幸せが習得可能なスキルセットやマインドセットのように仕立て上げられているところから来ているのだ。だが、世間が謳う「幸せ」を僕らが得られることは永遠にない。なぜならば、資本主義と同様、幸せは欠乏がシステムに組み込まれており、絶対に満たされないことでシステムが回っているからだ。ここで僕らが立ち返らなければならないのは、ポジティブと対極にあるネガティヴの価値である。幸せのイデオロギーは、ポジティブを称揚しすぎるあまり、ネガティヴを一様に悪いものと決めつけ、その複雑さから目を背けている。ネガティヴな思考や感情は人を振り回すこともあるが、それは時として重要なエネルギー源にもなる。個人にとっては深い内省の契機になるだろうし、集団にとっては社会変革を促すパワーにもなるだろう。そう考えると、幸せのイデオロギーが犯した最も重い過ちは、人間の多面性に思いを馳せる想像力を社会から奪ったことなのかもしれない。

母という呪縛 娘という牢獄

長きに渡り医学部への進学を強要された娘が、壮絶な日常の果てに母親を殺害してしまうという、実際に起きた殺人事件の真相を描いたノンフィクション。圧巻の一冊だった。途中たびたび挿入される母と娘のLINEのやり取りの生々しさに、思わず震えが止まらなかった。学歴信仰に取り憑かれた母親と、その暴力に歪な形で適応しようとした娘を見て、この母娘が特別に異常だったと切り捨てるのは容易い。けれど、個人的には程度の問題のような気がしている。というのも、家庭という密室においては、親から子への価値観の押し付けはどんな家庭でも起き得ることだからだ。教育が暴力に変わる境界線を自覚するのは、当人たちにとっては非常に難しい。関連して、この本を読みながら何度も気になったのは、驚くほど第三者の介入が少ないことだ。父親は早くに別居しているようだし、途中娘の教師も登場するが、それでも母と娘との二者関係は揺るがない。もしも母と娘それぞれに、互いの価値観を相対化させる第三者がいたならば。サードプレイスがあったならば…。事態は変わっていたのかもしれない。


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